2015年7月12日日曜日

1789 バスティーユの恋人たち フランス版と宝塚版の違い <人物編>

前回の感想に続き、オリジナルの仏版と宝塚版の違いについて引き続き書いていきたいと思います。

とりあえず、人物設定から。

<ロナン>
オリジナルでは、デムーランや他の革命家に混じって、存在感が若干薄かったロナン。彼が父をラザールによって理不尽に殺された、ということ以外、実は、原作ではそれほど人物像は掘り下げられていませんでした。革命家としての成長も、革命のパンフレット作りには関わっていたみたいだけど、デムーランのように演説の草稿を書いたりしていたわけでもなく、まさに「名もなき一青年」として、最後に命を落とす、という設定だったので、ヒーローらしさやカリスマ性といったものもほとんどない役でした。したがって、ミュージカル内では、きっと主役、、、なんだろうけど、ちょっと主役としては弱いなといった感じの役でした。

対して、宝塚版では、ちゃんとヒーローになっていましたw そして、きちんとどの場面でも舞台を引っ張っていく役になっていました。特に宝塚版の演出でよかったと思ったのが、バスティーユ監獄で、彼が吊り橋の鎖を切り、それを突破口に襲撃がなされた、という設定の変更。彼が主人公であること、そして革命の中での意義がはっきりわかってすごくよい変更だったと思います。でも、オリジナルの、カリスマ性を持ったヒーローではなく、「一市民」としての「名もなきヒーロー」という点はしっかり踏襲されていて、うれしかったです。

聞くところによれば、一般市民が宝塚の主人公として取り上げられるのは非常に珍しいのだとか。でも、キャラ設定がはっきりしているような偉人ではない人を主人公にするのって、すごく大変だったと思います(オリジナルでもこの辺はいろいろ迷走感がありました。。。)。そういう意味で、ここまで名も無き主人公をうまくまとめ上げたのはやっぱりすごいなあと思いました。

また、もう一つ宝塚版ではっきりとなった部分が革命家の中でも彼は農民、つまり下層市民であったという点。無学だけれど、ハートだけは熱いロナンとデムーラン、ロベスピエールといった「プチ・ブルジョワ」な平民の間でも対立があったことは、オリジナルでも描かれますが、オリジナルでは印刷所での口論は、ダントンの「喧嘩は止めるんだ!」の一喝で事態は丸く収まります。そして、その後デムラーンとロナンはあれだけ喧嘩してたのに堅い握手を交わし一件落着してしまいます笑。

これもうちょっと深く描いても良かったんじゃないかなあと私は思っていたのですが、宝塚版では私が思っていた以上にこのエピが掘り下げられていました→っていうか、一曲この件についてだった(笑)(自由と平等(原題:Pic et pic et amstramgram))。この歌元々は、どっちかっていうと、我々の団結は堅い!みたいな曲だったんですが笑。

でも、実は革命側だって一枚岩じゃない、という視点は非常に大事なことだと思います。宝塚版の歌詞ではないですが、リアルに社会の不条理を自分の目で見てきている「この身体の肌一枚」のロナンにとって、リアルを知らないちょっとスノッブなデムーランたちはやっぱり「どうせお前たちは上から目線で、本当に苦しんでる人達のことなんかわからないんだ!」と憤りたくなる気持ちは非常によくわかります。それが宝塚版ではより丁寧に描けていたかなという気がします。

ただ、、、うーんと思ったのは、前回の記事にも書いたように、やはり彼の死に方。これは、、、オリジナルにやっぱり忠実であって欲しかったです。。。

あと、カーテンコールで(あ、でも宝塚はその後レビューがあるので、エンディングって感じかな。)、さっきまで薄汚れたロナンがいきなり宝塚の白い衣装でせり上がってきたのは、、、宝塚のスター様登場なので仕方ないのでしょうが、革命へ静かに思いを馳せる曲なので、自分としては違和感が無きにしもあらず。ちなみに、オリジナルでは、ロナンは襲撃シーンの汚いメイクのまま(仏版は、Sur ma peauのシーンで歌いながら顔に茶色の顔料を塗る演出があるのです。)、最後にオランプと手をつなぎ登場するのですが、このほうが、「革命」の意味を考える上では良かったんだんじゃないかなあ、やっぱり。。。

あと、これは全くどうしようもない話なのですが、、、オリジナルで演じていたルイくんは20代そこそこのあどけなさが残る青年。周りのデムーラン、ロベスピエール、ダントンを演じてた役者は30代くらい。明らかに彼が一人若造(笑)だったので、若さゆえの無鉄砲さや一徹さが大人に混じってがんばってる感が出てて、なかなかいい感じだったのでした。が、宝塚版は、、、やっぱり若く見せてる感じが(汗)。東宝版に出演予定の小池くんはそういう意味では、童顔なので、この辺は意外とぴったりくるかもしれません。

<アントワネット>
仏版ならオランプが次に来るはずですが、宝塚版は間違いなく、アントワネットがロナンに次ぐ主人公になっていたと言えるでしょう。そして、フェルゼンがメインキャストへと格上げされ(仏版ではダンサーが片手間で演じてたのに、歌まで歌ってたよ(驚き)!)この二人の愛も物語の大きな主軸になっていました。が、前回の記事のとおり、宝塚版は、本当にフェルゼンを心から愛していたけれど、国のために、家族のために、夫であるルイ16世のために、泣く泣く諦める、という純愛+耐える女、というストーリーになっています。

仏版との一番大きな違いは、このフェルゼンとの恋が物語のもう一つの主軸になったこととも関連していますが、マリーアントワネットが改心した理由です。

宝塚版では、フェルゼンとの許されぬ恋に身を焦がしたため、その罰として愛息である王太子が亡くなったとアントワネットが自分を責め、改心する、という設定になっていますが、オリジナルでは、フェルゼンは冒頭の逢引のシーン以外では登場せず、この恋愛が直接王太子が亡くなったこととは関連付けられていません。

神様の裁き(原題:Je vous rends mon âme)は原曲と同様、マリー・アントワネットが改心し、神の赦しを請うというコンセプトは同じですが、宝塚版は良妻賢母になることを誓う(爆)曲になっているのに対し、オリジナルは、冒頭は自分の贅沢三昧の生活が、平民の生活を犠牲にしたと言うのなら、私を許してください、と始まり、後半は、もう二度と帰ってこない息子への愛、懺悔、を語ってはいつつも、やっぱりそれが恋愛によるものだとは言っていません。私個人の解釈ですが、、、仏版の改心した理由はやはり、アントワネットも最後は全てを失って、ちょっとだけ平民の痛みに気づき、人間としての改悛の情が湧いてきたということなんじゃないかと思います。

しかし、どうしてこんなにも「良妻賢母」をプッシュするのかなあというのは自分の中で疑問に残りました。オランプに暇を出すときも、仏版では、国のために、という話以前に、自分は愛する人(フェルゼン)を追いかけられなかったけれど、あなたなら追いかけられる、と「恋する女」として、オランプを応援するという設定になっています(プロデューサーさんは、王妃、妻、母である前にアントワネットもやはり恋する女だったのだ、ということを言いたかったのかなと思います。)。宝塚版はこのシーンでは「女」なアントワネットがそこまで強調されてなかったような。

不義の恋ということについても、多分ベルサイユ・ワールドにおいて、愛人がいるなんてことは、日常茶飯事で、仏版では不義を後悔するなんて発想自体なかったんだと思うんですが(笑)、好きな人を諦め、貞淑な妻に戻る、という設定が、個人的にはすごく日本的な「ザ・清い人」な感じに見えました。。。

こういうところは、やっぱり日仏のモラル観というかそういう文化的背景が影響を受けているのではないかと推察。。。

でも、宝塚版でアントワネットを演じていた愛希さんは、その佇まいがまさにアントワネット。王妃としての威厳、そして凛とした美しさがぴったりハマっていました。あと、個人的に、全てを賭けて(原題:Je mise tout)以外の(笑)衣装がオリジナルより上品で高貴な感じがして素敵だったと思います。オリジナルは割と若めのかわいい子がアントワネットを演じていたのですが、私としては、愛希さんのほうが落ち着きがあって、ハマっていたかなあという気がします笑。

<オランプ>
配役の掲載順ではかなり格下げされていたオランプですが、、、舞台を見ている感じではそれほど存在感が薄れた、という感じはしませんでした。そして、ロナンとキスしてた回数、、、多分、仏版より多かった気がする笑。

キャラ設定もオリジナルからほぼ変更がありませんでした。良家の子女で、王妃様のためなら体張ってでもがんばる真面目ガール。でも敵であるロナンに恋してしまう。。。

ただ、彼女が1人で歌う曲がアントワネットに取られてしまったり、ロナンとのデュエット曲がロナンのソロ曲になってしまったり(Tomber dans ses yeux(邦題:二度と消せない))、歌うシーンは減った印象でした。

あともう1つ原作との違い、として思ったのは、「神」の存在が宝塚版ではロナンとオランプとの恋の焦点にあまりなかったことかなと思います。2人が別れてしまった理由は、革命に生きるvs王家に仕えるという任務という感じだったと思うのですが、実はオリジナルでは「神」が結構絡んでます。こういうところがやっぱりフランスっぽいような気が自分はしました。

宝塚版では「思いが違うの」というややわかりにくいセリフで2人の世界観の違い表現されていましたが、仏版ではもう少し細かいやりとりがあって、革命=神なぞいない、人間はすべて平等、人間が中心というパラダイムに生きるロナンと王家サイド=神を信じ、王権神授説の下、王を絶対化した存在として畏怖しているオランプが「愛を持ってしても超えられない(ように思える)決定的な違い」を巡り、口論になるという設定になっています。

あと、宝塚版でもやっぱり何故2人が恋に落ちたのかは、よくわからなかった気がしました。オリジナルはオランプが救出したときに一目惚れ、だったのか??ぐらいで全くの謎、、、でしたが、宝塚版もやっぱりそんな感じ??ぐらいでした笑。この部分はオリジナルのストーリー・ラインが弱くてどうしようもなかったのかなあと自分は思いました苦笑。

私が観劇した日は海乃美月さんがオランプを演じていましたが、真面目ガールな感じがぴったりですごくよかったです。

<アルトワ伯>
この役は、一番仏版と違うのではないでしょうか。役回りとしては、仏版のアルトワ伯(腹黒、策略キャラ)とラマール(オランプを囲おうとする)の役を合体させたような感じ。そして、そこにお耽美俺様キャラの要素が加わり、なんだかすごい魅力的な(笑)悪役キャラになっていました。これだけ悪役が美形なのも悪くないなあと思わず思ってしまったほど。オリジナルにはない、確固たるキャラにいい意味で変貌していました。

Je suis un dieu(邦題:私は神だ)は、オランプに迫る曲という意味では仏版と同じですが、仏版はラマール(宝塚版同様、ヘマばっかりしていつも空回り、でも威張りくさっている器の小さい男、という設定)が歌っていたので、むしろこの曲は、何だか滑稽な歌だったのですが、、、宝塚版は魅惑の媚薬ソング(笑)になってました。媚薬設定にはビビりましたが、これも、ありかなあと思わず思ってしまいました笑。

が、その変更のせいで、トゥルヌマンとロワゼルはまだしも、ラマールの存在が結構無駄っぽい印象を受けました。宝塚版でも、観客の笑いを取るために登場している役回りですが、どうも冗長というか、、、ラマールは潔く切っても良かったんじゃないかなあという気が自分はしました。あと、宝塚版はそんなこんなでアルトワ伯のキャラが独り立ちしてしまったので、ラマールとの軽妙な掛け合いが少々減ったような気がしました。そういえば、マイナーなところでは、宝塚版でラマールは死なないのでした。

<デムーラン、ロベスピエール、ダントン>
この3人の使い方が宝塚版では一番残念だったかなあ。オリジナルでは、見た目もキャラ設定も明確に違っていますし(デムーラン→理想家、ロマンティック、ロベスピエール→熱い、情熱家(恐怖政治の部分は出てこない)、ダントン→おおらか、女好き、3枚目)、それぞれミュージカルの鍵となる曲をソロで歌っているので(デムーラン→サイラモナムール、Fixe、ロベスピエール→A quoi tu danses、Hey ha、ダントン→Au Palais Royal)それぞれ非常に魅力的なキャラクターになっていました。が、宝塚では、衣装は違うのに、どうもみんな「同じ美形な感じ」に見えてしまって、しまいには、誰が誰だかわからなくなってしまいました、自分苦笑。というわけで、彼らは基本常にセットでプチブルジョワな革命家ズに見えてしまったのでした。。。

ただ、これは、明らかにロナンを主役として引き上げるために、行われた演出の変更によるものなので、仕方のないことなのかもしれません。でも、もう少し、3人の違いがよりはっきりしたら良かったのになあと思いました。特に割りを食ったのはデムーラン。サイラモナムールはロナンがリードを歌いバックコーラスに、Aux armes!(武器を取れ!)のシーンも連呼していた割りに、仏版ほどドラマチックなシーンにはならず(っていうか、テーブルに立っていたのはひょっとしてロナンだった??いや、さすがにそれはないよね。。。)、、、。ほんと、one of themに埋没してました。仏版は彼の存在が主役のロナンを食ってしまうほどに大きかったのですが、彼の持つ「理想の国」を目指そう!というロマンティックな雰囲気が少々宝塚版では弱まっていたかなという気がします(まあ、その役割をロナンが担っていた、と考えることもできるのですが。。。)。

あと、個人的にお、と思ったのが、デムーランの妻リュシーの登場。仏版にはない役なのですが、デムーランについて、自分が調べていた時に偶然この2人のラブ・ストーリーを知り(2人とも恐怖政治のときに処刑されてしまいます。)いたく感動したので、この改変ちょっとだけうれしかったです。

<ソレンヌ>
すでに前回ほとんど書いてしまったのですが、やっぱりフランス版との一番大きな違いは、オリジナルでは悲しみ、脆さを胸に秘めつつも、娼婦として生きる誇り、したたかさ、強さ(言葉はあまり素敵ではないけれど、何があったって生きてやる!みたいな雑草魂を感じた。)が全面に出ていたのに対し、宝塚版はロナンの妹という点が重視されていて、ちょっとかわいいキャラに変更になっていた点でしょうか。

変更点で一番大きかったのは、彼女の代名詞とも言える歌、Je veux le mondeを歌わないこと。この歌がなくなったために、彼女の存在感が一気に薄まり、舞台の中における「女性」の役割が一気に減ってしまいました。

オリジナル版ではかなり存在感があった役ですが、宝塚版ではかなり脇役に格下げの印象でした。ここは本当に残念。

<ラザール>
一言。う、美しすぎる。2階席からの観劇でしたが、はっきりとその美しさがわかりました笑。演じてらっしゃった星条さん、彫りが深いお顔立ちが際立っていました。オリジナルを演じていたマチューは、どちらかというとフランス人にしては薄い顔立ちをしていた(爆)+ロッカーなので、こんな眩いキラキラ感はなく、そのギャップに慣れるのに時間がかかりました笑。

ロナンの父を殺す仇役という点や無慈悲なサディスティック・キャラという点はオリジナルと同じでしたが、ロナンと歌うManiaque(邦題:耐えてみせる)とNous ne sommes(邦題:国王陛下の名の下に)の演出は結構違ってました。宝塚版はまさに美しいサディスト(爆)。

一番の違いは、Maniaqueで彼が実際にロナンに拷問を指示する役になっていたということ。これは、びっくりでした。が、、、私としてはこの演出はあまり好きではなかったかな。これは、仏版のコンセプトからちょっと外れていた気がします。。。フィジカルな暴力シーンは物語の設定上必要であれば、全然構わないのですが、、、個人的にこの場面で拷問を持ってくることが果たして必要だったのかな、、、と自分は疑問に思いました。前回の記事で、仏版の良さはエグさと書きましたが、こういうフィジカルなエグさを持ってきて、なんか残酷〜、と観客に思わせるのは、ちょっと安易な気がします(実際に拷問とかはあったのかもしれませんが…。)。精神vs肉体としたかったのはわかるのですが。

仏版も確かに、どんな仕打ち(父を殺されたり、土地を没収されたり)を受けても人間の「考え」だけは奪うことはできない、と訴えるロナンをラザールが嘲笑うという設定は一緒ですが、Maniaqueの歌の元々の意味は、フィジカルな痛みに耐えてやる、というよりも、マニアック(偏執者=取り憑かれた人)という言葉が示す通り、取り憑かれてしまうくらい強い復讐への怒り、また、「考え」によって体はどんなに捕らえられても自由でいられる、と主張するロナンとその「考え」によってお前は囚われているのだ=早くそんな馬鹿な考えを捨てろ、と嘲るラザールとの対比がメインテーマだったのですが、この辺、単純化されちゃって残念、と自分は思いました。

Nous ne sommesは、ラザールが指揮者のようになって(オリジナルでは実際に指揮をする振りがある。)軍隊を奏でる(笑)という演出があったのですが、それが確か宝塚版ではなかったか、あんまりよくわからない設定になってた気が。ここで星条さんがすごい声を潰してドス声で歌ってたのがそういえばこの曲では印象的でした。が、オリジナルですごく印象的だった「イっちゃってる」顔はやはり美の宝塚では無理でした苦笑。しかし、マチューに星条さんのお写真見せてあげたいわ笑。

<その他>
・フェルゼン
宝塚版ではアルトワ伯に次ぐ出世をしたキャラと言えるでしょう笑。これはやっぱり、ベルばらの影響なのかなあと思いますが。

前述のように、オリジナルでは半ばどーでもいいキャラでしたが、宝塚版では、アントワネットの相手役として、アントワネットへの純愛を貫き、最後は美しく身を引き、王家を守ると誓うまさに「王子様」キャラでした。そして、宝塚用の書き下ろし曲である「世界の終わりが来ても」のデュエットにも参加。振り返ると、フェルゼンぐらいしかザ・王子様キャラはこの作品にはいなかったな。。。

・ルイ16世
オリジナルではかなり幼稚でおバカなキャラ全開でしたが(笑)、宝塚版は政治に関心がなく趣味に走っていたとはいえ、かなり人格者だけど優柔不断な人、というやや救いようがある人物に改変されていました。

・オランプの父
オリジナルでは、ロナンの解放を訴えるオランプに対し、父は鍵を渡そうとしません!笑。なので、オランプは父がよそ見をした時を見計らって、バスティーユ監獄の鍵を奪取し、ロナンを助け出します。宝塚版でお父さんが、娘を信じよう、と言い、あっさり鍵を渡したのはかなりずっこけました。え?お父さん、あなた監獄の監視役でしょーが!笑。というわけで、医者を装ってオランプと一緒にロナンを救出するシーンもオリジナルにはありません。穿った考えかもしれませんが、オランプが一人でロナンを救出できないという改変もやっぱり宝塚だから?と思ってしまいました。

そして、前回の記事にも書いた通り、最後のシーンでオランプ父が救出されるといったエピソードもオリジナルにはありません。

・シャーロット
ロナンとオランプの恋のキューピッドという設定は同じですが、オリジナルは、2人の恋を応援しつつも、おしゃまな面もあり、ある意味小生意気な感じの女の子だったのが、宝塚版は本当に2人の恋を心から応援するかわいい女の子という感じにちょっとだけ変更されていたように思います。

オリジナルでもはっきりとは言及されていませんが、「パレロワイヤル」というおよそ子どもがいるべきではない場所を1人でうろついていたり、パリのあらゆる場所に精通しているところを考えると、シャーロットは、何らかの理由で孤児になった子だと思われるのですが、そういったたくましく生きる子ども、という部分が宝塚版は薄れたかな、という感じでした。もう1つ、シャーロットの見せ場だった、ダントンとの軽妙な歌の掛け合いがあるAu Palais Royalでの登場場面がカットされたこともあり、やはりキャラとして格下げされた印象でした。

・印刷所の人々
オリジナルでマラーは辛うじて、出てきてたと思いますが、それ以外の印刷工はダンサー1,2…といった感じで名前は全く付いてませんでした笑。なので、宝塚版でかなりの人に名前が付いてたのは新鮮でした。

・ギヨタン博士
これ、宝塚版の完全オリジナル・キャラですが、、、個人的に彼の役回り、というか、何度も何度もギロチンの機械が出てきて、repriseされる理由が私には全く謎でした。アントワネットたちがこの後、褒めちぎっていたこの機械で自ら命を落とすことになる皮肉、もしくは忍び寄る死の影を表したかったのではないかと想像するのですが、イマイチ話に関係ないし、あの小さなギロチンの模型が出てくる都度、私はイラっとしてしまいました笑。

全体として、ポリニャック夫人等、オリジナルでは歌を歌わないキャラもみんな歌に参加していたり、同じ人がいろいろな役を兼任したりといったことは無くなっているといった変更がありました。

こうやってまとめてみるとやっぱり結構変更があったなあと思うのと同時に、やっぱり文化の影響って大きいんだなと思いました。



2015年7月11日土曜日

1789 バスティーユの恋人たち 宝塚公演、観劇しました!

さて、1789 Les Amants de la Bastilleのオリジナルをわざわざパリまで見に行ってから早3年。
ついに、日本で上演される1789を見に行くことができました!そして、記念すべき初宝塚観劇。ドキドキでした。

初めて宝塚の劇場に来ました!やはり女子、女子、女子笑

作品の潤色度については、いろいろな噂をちょくちょく耳にしていたので、かなり改変が加えらえれていることは知っていましたが、いやあ、変わってましたね笑。全く違う物語に仕上がっていました。「恋人たち」が2組になってたよw、から始まり、アルトワ伯がお耽美神様キャラに格上げされていたり笑。。。話し出したらきりがなくなるのでここら辺で止めておきますが…。

でも、予想通り、宝塚版のほうが、ロナンを中心とした革命群像劇そしてオランプとロナン&アントワネットとフェルゼンの愛の物語という筋書きがはっきりとしていて、起承転結も仏版よりわかりやすくできていたんじゃないかなと思います。

仏版は先に音楽ありきで、物語がそれを追っているって感じで、「革命に散った若い命」、「人間の尊厳」、「命の重さ(あるいは軽さ)」といった主題はかなりはっきりと伝わるんだけど、そこに辿り着くまでの線がどうも曖昧で(四方八方にいろいろ散った挙句、強引に収束、と見えなくも無い展開。。。)、見終わった後、若干きつねにつままれた感がありました笑。それが、宝塚版では、すごく緻密にストーリーが線として作りこまれていて、見終わった後に、いろいろ納得しました(仏版とは全く別の新たなストーリーとしてですが笑。)。でも、こうやって観客をきちんと納得させられるのはやっぱり演出家さんの手腕なんだと思います。

が、その反面、そういった緻密な文脈を作るにあたってかなり大胆な改変が加えられたため、オリジナルでは活きてた設定が、意味不明になっていたことも。でも、まあ、これはある意味仕方のないことな気がします。

セリフは意外と仏語版のセリフを忠実に再現しているものもあり、歌もJe mise tout等はそのまま曲の内容を踏襲していました。が、やはり、大部分が全然違うコンテクストで歌われていたり(La sentence、Je veux le monde etc...)、全然違う歌になっていたり(Pour un  nouveau monde)、、、様々でした。

あと、宝塚版ならでは、と思ったのは、やはり歌。使われた曲をチェックしてみたのですが、宝塚版では、オリジナルから1曲削られた曲(La Rue Nous Appartient)があったものの、シーズン2でしか使われなかった曲が2曲、CDにのみ採用されている曲から1曲、宝塚版の書き下ろし曲1曲が加わっていたので、オリジナルよりも実は、3曲も多い構成でした。これはやっぱり「歌劇団」だからなんじゃないかなと思うのですが。。。

しかもジェンヌさんたちは全員歌が歌えるので(オリジナルはダンサーと歌手は別々なので、実は舞台に立ってる人の大半は歌が歌えないというか、マイクをつけていない笑。したがって、コーラスも全て録音。。。)合唱シーンがすごく良かったなと思いました。これは多くの人も思ったのではないかと思うのですが、「声なき言葉  (原題:Les mots que l'on ne dit pas )」は、実は、元の曲のコンテクストとは全く違うものの(元々は、オランプが、ロナンに伝えられなかった言葉について思いを馳せる歌。)、ハミングの合唱の部分の重層的な響きがこの歌にスケール感を生み出していて、宝塚版のオリジナル曲として華麗なる 変身を遂げていました。

特に歌で自分の中で印象に残ったのは、アントワネット役の愛希れいかさん。透き通るような高音は宝塚ならでは、だと思います(基本的に、フランスではミュージカルに出演する歌手はポップやロックを歌う人たちなので、こういうクラシカルなザ・高音を聞くことはあまりない。)。お美しさも相まってうっとり。

お芝居についても、 宝塚の方がやはり発声等、ザ・舞台といった感じがしました。そもそも、フレンチ・ミュージカルは音楽を中心にしてそれをつなげるために台詞がつくといった感じであることが多く、歌に対する比重が高めなので、台詞部分はそれほど細かくないことが多い気がします(ノートルダム・ド・パリなんて、台詞がそもそもないし。)。

対して、宝塚は、台詞一つ一つが、細かめで、説明的な部分が多いように感じました(分量自体も多かったのかな。。。)。しかも、仏版は、舞台で歌を歌う人はメインの職業は歌手という人が多いので(コンサートやったり、シングルとか出す普通の歌手=舞台とはおよそ無縁な人ということです笑。)、人によっては演技をしたことがないという人もいるので、演技としては、もうちょっと荒削り、ナチュラル目な気がします(決して大根というわけではないですが。)。

あと、上記に関連していることでもありますが、仏版よりも宝塚版は、状況設定が非常にわかりやすくなっていました。これ、実はパリで見ていたとき、私かなり混乱していたので、フランス革命の細かな点に詳しくない私のような人間に は非常に親切だなと思いました。場面が変わるごとにちゃんとどこか文字で示されるし、「三部会」という歌が追加になっていましたが、こういった形でところ どころ解説してくれるシーンがあったり、テニスコートの誓いのシーンではちゃんとテニスコートがセットになっていたり(仏版は何もなかったので、何の シーンかさっぱりわからなかった。)、迷うことなく話の筋を追うことができました。

宝塚でもう一つ忘れてはいけないのは、ダンスだと思いますが、こちら、レビューはさすが!!!でした ^^ 物語の暗いエンディングから一転、突然キラキラ純白お衣装、ミラーボールになるので、ちょっと頭の切替は必要でしたが笑。ラインダンス、羽、羽、羽、はやっぱりフランスって感じがしました!

ですが、劇中のダンスは、オリジナルで筋肉隆々の男性ダンサーが演じていた振りをそのまま持ってくることはできないので、やっぱりその辺はちょっと迫力としては仏版のほうに軍配が挙がるかなという印象でした。Maniaque(邦題:耐えてみせる)やNous ne sommes (邦題:国王陛下の名の下に)等の男臭さ満載の力技が結集されている振り付けはやはりなくなっていたので、その辺の雄雄しさはやはり影を潜めていた気がしました(いや、むしろ、そういう汗臭さは宝塚には求められていないとも言えるでしょう。)。やはり女の子ということもあるのだと思いますが、どうも衛兵の格好も何となくかわいいコスプレにしか見えず(ごめんなさい)、、、ここはやっぱり男性ダンサーのほうがいいんじゃないかなと個人的には思いました。

あと全体的に宝塚のダンスは、綺麗にまとまっていて、確かに美しいのですが、フランスのオリジナルのような迸る感情、エネルギーというのはちょっと薄かったかなという気がします。その影響もあってか、Sur ma peau(邦題:肌に刻み込まれたもの)から最後のバスティーユ監獄のシーンにかけての盛り上がりがイマイチだった気が。あのシーンは民衆の怖いまでの怒り、魂の叫び、新しい世界への想いが渾然となった一種の「カオス」的なシーンなので、もうちょっとそういう観客を圧倒するぐらいのメラメラとしたものを見たかった気がしました。

娘役さんが いっぱい出てくるLa nuit m'appelle (邦題:夜のプリンセス)は割とセクスィーな振りや表情もいっぱいあったのですが(おー、ここまで宝塚でもやるのね、と私は、結構驚きました。)、仏版の女性ダンサーのような匂い立つような妖艶なセクシーさ、加えてガールズ・パワーというか女性としての矜持を高らかに歌い上げるといった要素がやや弱いように思えました。。。(やっぱり、ところどころ、良家の子女っぽさが見え隠れしていて、悪い女を「演じている」感じがした。。。)。

でも、こういうちょっと危険なファム・ファタルなセクシーさというのは、努力して醸し出すものというより、自然に滲み出てきてしまうもの(セクシーな人って、何してもセクシーじゃないですか笑)だと思うので、これはやっぱりl'amourな国フランスで活躍する女子たちと比べると酷かなという気はします。。。さらにいえば、それこそ、そういう露骨なセクシーさというのは、やっぱり宝塚に求められているものとは別物なのかなという気もしました。



さて、観劇後、劇場を後にしたわけですが、、、。


お話の作りも良かったし、歌も上手だったし、演技も良かったし、周りの人の反応も「良かったわね~」で満場一致だったのに、なぜか一人劇場入口で悶々としている自分がいました。。。

その理由を考えてみたのですが、つきつめたところ、細かな変更も含めて、いろいろな面で仏版の「リアルさ」、「エグさ」がなくなって、「美しさ」だけ残っている作品になっていたから、な気がしました。

でも、これは、宝塚の公演ということを考えれば必然的な帰結な気はします。ネットで宝塚の魅力、というのを検索していて、多く挙がっていた理由の一つに「リアルな世界には存在しない夢のような世界に出会えるから」というものがありました。実際、舞台を見てみて、舞台人として洗練された女性たちによる伝統と歴史に裏づけされたまさに粋を集めた舞台であると思いました。ですが、、、ここからは、完全に私の解釈にはなってしまうのですが、、、同時に、あまりに完璧すぎて、「隙がない」というか、「美しすぎる」気が私にはしました。。。

特にそれぞれのキャラクターの解釈がみんな、「いい人」になっていて、お話自体も「イイ話」に変更になっていたのが個人的には気になりました。確かに、仏版も、プロデューサーが、インタビューで革命の最もロマンティックな時代を描きたかった、だから1789年より後の血みどろの恐怖政治の時代は描いていないとおっしゃっていた↓ので(宝塚版にはロナンが拷問されるシーンがありますが、実は、多分こういう背景からか仏版にはロナンが直接暴力を受けるようなシーンは出てきません。)、1789年という人々の理想に燃えた「美しさ」を描こうということではあったんだと思いますし、最後の人権宣言のシーンなどはほんとに心揺さぶられるものがあります。

1789のプロデューサーであるアチアさん、アルベールさんのインタビュー
https://youtu.be/9cPKuI-aWIM

ただ、私が宝塚版を見て思ったのは、宝塚版はやっぱり型がきっちり決まっているというか、とにかく見せ方をかっこよくすることに比重が置かれている気がしました。それに対して、仏版は、同じ「美しい」であっても、その意味合いはちょっと違うように思います。

もちろん、仏版も振付け、衣装、舞台装置は華麗です。でも、それ以上にこの舞台が見せようとしていたもの、それは、人々の「リアルな感情のぶつかりあい」だったのではないかと思います。怒りは怒り、悲しみは悲しみ、憎しみは憎しみ、喜び(悦び)は喜び(悦び)、どの感情もリアルで人間味が溢れています。そして、悲惨なものはとことん悲惨で、無慈悲です(ほんとに、misérable ...)。

例えば、アントワネットの死のシーンは、なかなかエグい演出でしたし、前述のとおり、襲撃のシーンのダンサーの表情には鬼気迫るものがありました。La nuit m'apppeleのダンスの振りには明らかに営みを連想させ、女性が傷つくことを表している振りがあります。革命家同士の喧嘩のシーンも、本気でロナンがデムーランに食ってかかり、ダントンがどうして、憎しみ合わなければいけない?と諭します笑。そして、王太子のお葬式で2人が再会するシーンは、お葬式なのに、オランプの衣装はスケスケシースルー、抑えきれない想いをバトルのように掛け合いで歌い、そして最後にがっつりと抱擁 笑。愛にモラルは関係ありません(爆)。

設定にしても、主人公のロナンの妹のソレンヌは、宝塚版では、兄と仲直りもしますし、最後の方では、昼はカフェで働いており、どうやら娼婦の道から足を洗いつつあるような感じの設定になっています。しかし、仏版の設定では、娼婦のままで、ロナンが置き去りにしたことを謝罪するにもかかわらず、彼女はそれを受け入れず、パンを求め、武器を手に行進へと向かいます。そして、そのまま、ロナンは死にます。

これはオランプの設定にも言えます。仏版では、アントワネットに任を解かれ、ロナンを追いかける、というところまでは同じですが、ロナンと再会してハート<3みたいなシーンはありません。(壁を隔てて、愛を告白する白昼夢のようなシーンが挟み込まれるだけ。。。)その後ロナンに出会うときは、やはりバスティーユ監獄でロナンが凶弾に倒れるところです。やはりこの二人も最後に言葉を交わしたのは、「生きる世界が違う」と認識し、半ば喧嘩別れをしてしまうシーンです。

だからこそ、最後のロナンの死の悲劇性が増すわけですが、宝塚版は、どうも最後にみんな人はいい人になるし、がんばる人はどこかで幸せになることができる、みたいな設定になってたのが、私には安直すぎに思えました。

アントワネットの恋も、宝塚版は、フェルゼンとの純愛、そして、最後はフランス王妃としてルイ16世の貞淑な妻に戻ることを決心する、という些か古風というか、日本人にとって受け入れやすい設定になっていますが、、、仏版は、フェルゼンとの恋が物語の中心でないこともありますが、、、フェルゼンへの恋が宝塚版ほど純粋な愛には見えませんでした(まあ、確かにオランプに私は愛する人を追いかけられない、でもあなたは追いかけなさい、とは言うんですが、フェルゼンが出てくるシーンは、パレロワイヤルの密会シーンだけで、あなた、どうせ女ができたんでしょ!で、終わっているので、やっぱりアバンチュールな恋だったのかしら?という印象は拭えませんでした苦笑。。。)。しかも、浮気をルイ16世に指摘されたときは、「そんな噂を信じるなんて侮辱だわ!」と怒り心頭で、ルイ16世の元に戻る気配もありませんでした。。。というわけで、アントワネットも間違いを犯したけれども、貞淑な妻に戻る、というより感情移入しやすい「いい人」キャラに設定が変更。。。

仏版は、話の筋は突っ込みどころが満載ですし、演技自体は宝塚と比べればだいぶ荒削りだったと思いますが、役者本人がほんとに役を通して、革命を舞台の上で確かに起こしてました。 一人一人の想いが本当に世界を動かすんだ、そう信じさせてくれる舞台でした。

宝塚の演技は手足の隅々まで気が配られていて、発声もくっきり、はっきり。演技の基礎がやっぱりみんなきちんと舞台人として完成しているなあと感心したのですが、拷問のシーンや人々が窮状を訴えるシーンでさえも、なぜかかっこよく見えてしまい(貧しい若者が鞭打たれてるんじゃなくて、スター様が鞭打たれちゃってるー、みたいな感じ。)、、、全てがキラキラに見えてしまいました。。。それがなんとなく、私の中では違和感として残ってしまったような気がします。

新しい時代への理想も、仏版の場合はそういう、妥協のない(苦笑)救いようのない悲惨さ、怒りから、こういう美しい理想が生まれたんだという地に足のついたベクトルを肌で感じることができたのですが、宝塚版は、どうもその辺りが、キラキラ感も相まってか、美しい理想だけが燦然と輝いていて、その裏にある人々の惨状や涙、怒り、憤り、不条理さがどうしてもはっきりと見えてこないなという印象でした。

私はどちらかというと、キラキラ感だけでなく、ドロドロでもリアルな人間の「生」を見たい、というタイプなので(ある意味泥臭い感じ)、宝塚版には宝塚版の良さがありつつも、やっぱり仏版のほうが自分の考える「革命」のイメージにしっくりくるかなあという気がしました。

でも、これは、宝塚と仏版では目指す舞台が違う、ということももちろん関係あると思いますし、フランスと日本の文化の違いということもあると思います。また、単純に何を舞台に求めるのか、で、舞台の見え方も自ずと変わってくるのではないかという気がします。

そして、もう一つ気になったこと。。。これは、自分がフェミニスト寄りな人間だからなのかもしれませんが、、、やっぱり「女性」の役割が極端に抜け落ちていたことがすごく残念でした。

フランスがフェミニストの国なのか、、、というとこれはこれで難しいですが、、、少なくとも、仏版のオリジナルでは、男から見た革命と女から見た革命の両方が半々ぐらいで描かれています。男の見せ場がバスティーユ襲撃なら、女の一番の見せ場は、パンを求めて立ち上がり、惨めな思いはもうたくさん、さあ、みんな革命を起こすわよ!とソレンヌが歌うJe veux le monde(邦題:世界を我らに)だと思うのですが、宝塚版ではこのシーンは男たちが革命後の新しい世界を夢見て歌うという設定に変わっており、女が立ち上がることを明確に示した歌はなくなってしまいました。

この歌は、元々は、新しい世界を求める歌であると同時に、世界を握っているのは女なのよ、男ってのはバカなんだから、という「女王様」ソングでもあります笑。歌詞も中々辛辣で、おー、これは男もビビるわね(笑)、みたいな歌です。そう、女だってファイターなのだ!と私は感激しながら頷いていたわけですが(笑)、この歌のコンセプトが宝塚版ではごっそり消えてしまったために、宝塚版では女性の強さ、したたかさ、ファイティングスピリットが全く描かれない事態となってしまいました。

そのため、なんだか非常にアンバランスな仕上がりになったように思います。これは、男性トップを魅せる演出をする宝塚にとっては仕方のないことなのは重々承知しているのですが、、、私個人としては、この部分は仏版の大事なエッセンスの一つだと思うので、これを落としてしまうと、仏的エスプリが抜けた舞台になってしまうと思います。。。

あと、前述のLa nuit m'appelleは、仏版は、普通は眉をひそめて捉えられがちな「娼婦」という職業を「美」と捉え、そこに見える女として生きる誇りを感じさせる曲なのですが、宝塚版はタイトルが「プリンセス」になってしまっている辺り(どっちかっていうと女王だよなあ。。。なんか一気にかわいくなってしまった。)からして、どうもキラキラ感が拭い去れず、そういった底辺で生き抜いている人の美しさ、したたかさ、たくましさが、どうも伝えきれていない気がしました。やっぱり、典型的な姫キャラではない女性を描くのは、宝塚では難しいのでしょうか。。。「夜に私は自分自身が一番美しいと感じるの。」という歌詞が持つ艶かしさ、誇り、でもその裏側にある脆さ、、、そういう人間の多面性がもう少し見えたら、と思いました。。。

そして、一番、むむむ、と納得いかなかったのは、主人公のロナンの最期。

最後、宝塚版は、オランプのお父さんを守るためにロナンが代わりに死ぬことになっています。これは、、、、確かにイイ話、だけれど、正直、演出として仏版の大事なコンセプトを台無しにしてしまった残念なシーンでした。

上記の仏版のプロデューサーのインタビューに、「なぜ、ロナンを死なせてしまう設定にしたのですか?」という質問があるのですが、彼らは、ロナンの死は、「(革命で犠牲になった人々の)象徴なんだ」と答えています。これは、ミュージカル鑑賞時に私も強く感じたことでしたし、このミュージカルが一番伝えたかったことなのではないかと思います。

ロナンが死ぬシーンは、「ロナン」という個人の死を超えて、もっと普遍的な「犠牲」を意味しており、そういった多大な犠牲と引き換えに、私たちが現在享受する人権だったり、自由といった大事な権利があるということを象徴的に表しているシーンだと思うんです。この仏版のあっけないロナンの死のシーンは、その悲劇性、不条理さを示すと同時に神々しさも感じさせる重要なシーンになっていると思います(プロデューサーさんは、このことを人類の罪を背負って死んでいったキリストにたとえていますが、そういう目で見ると、確かにね、と思うシーンでした。)。

が、宝塚版では「お父さんのため」という完全に個別的な「死」にすり替えられてしまったため、ロナンは愛する人を守るために戦った人という個別具体的な死に留まってしまい、そういうフランス版の大きな背景が見えづらくなってしまったように思いました。これ、東宝版でぜひ変えて欲しい苦笑。そうしないと、この物語単なるラブストーリー&青春物語になってしまうもの。。。

以上、雑感、、、でした。
次回、なんとなく、仏版との違いを羅列してみようかなと思います。