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2015年4月30日木曜日

Xavier Dolan グザヴィエ・ドランの"Mommy/マミー"鑑賞

ひょんなことからグザヴィエのカンヌの授賞式のスピーチを見て、グザヴィエの"Mommy"について知り、(そう、実は私、最初に知ったグザヴィエの作品はなぜかMommyだったりする笑。)、とりあえずすごいという話を耳にし、これまでの作品を見て(Tom à la fermeだけ未見。)、その作品の鮮烈さに衝撃を受けて以来、グザヴィエを心の中でこっそり応援している。

このチラシ傑作。何種類か種類があるのですが、
このチラシはカンヌのスピーチのことが裏に
書いてあります。

日本版の予告編にはカンヌのスピーチの
場面も挿入されているVerもある。

物語を追ったVer
グザヴィエの映像力。。。

去年のあの感動的な授賞式のスピーチから1年経ち、やっとMommyが日本で公開された。最近はあまり映画館に行かなくなってしまったのだが、久々に初日に映画館訪問。

グザヴィエのマミーに関するインタビュー(日本語)→http://natalie.mu/eiga/pp/mommy 
グザヴィエがマミーについて語るインタビュー(音声/英語)→こちら
なかなか面白い。

初日の最後の回に行ったのだが、結構な人だかり。そして、「グザヴィエって、○○」みたいな会話をしている人をいっぱい見かける。単館系のシアターとあって、来ている観客の人たちもやっぱり眼が肥えた方たちといった印象。

開場まで少し時間があったので、ロビーでくつろいでいると、前にいた青年が電話口で先ほど見たMommyの感動を誰かに熱く語っていた。すごいな、グザヴィエ。とここでまた認識する。

今回、本編上映前にグザヴィエの映画レクチャーのような、ミニクリップが上映された。これが良かった。グザヴィエ作品好きにはたまらない。

そこで取り上げられていたXavier映画の特徴:

①後姿のショットが多い
②前からのショットでも登場人物が伏し目がちだったりして、表情がほとんど読み取れないことが多い
③廊下のショットのシーンが重要な役割を担っている
④どんなに接近したショットでもフレームの人物とかならず距離がある 
⑤スローモーションの多用

ほかにもあったような気がするけれど、とりあえず覚えているのがこんな感じ。
スローモーションについては、Xavierのインタビューで本人も好きと語っていたのを聞いたことがあったので、何となく気づいていたが、バックショットが多いというのは言われるまであまり意識したことがなかった。このレクチャビデオではそれぞれのテーマのシーンがいろいろなXavierの作品から抽出されていて、あーほんとにそうだ、とまさに納得できる笑。

さてマミー本編の感想。

一応、フラ語学習者的視点から、言語について。

出演者も舞台もケベックというかカナダなので、バリバリのケベコワ・フレンチだということはわかっていたが、これが想像以上だった。すごい。とにかく何を言っているかさっぱりわからない。アクセントがとりあえず強烈。。。普通のフランスのフランス語でも映画や日常会話になると、途端に自分の聞き取り能力は落ちるのだが(汗)、今回の映画は10%くらいしかたぶん言っていることが理解できなかった。字幕を見てもどんなフランス語か全く想像ができない。。。でも、ケベコワ特有の罵り言葉であるTabarnakが多用されていたり、anglicismeと言われる英語化した表現やボキャブラリーが随所に見られ(やたらOKと登場人物が言ってた気が。)、いろいろな言語を行き来するのが結構好きな自分としてはケベコワ・ワールドをすごく堪能できた。

実は、自分、再見用にフランスで既に発売されているDVDを取り寄せていた(笑) ので、改めて耳が不自由な方向けの字幕つきで見てみたのだが、実は、フランスで発売されているDVDはフランスのフランス語で字幕が付けられているため、驚くほど言っていることと聞こえる音が一致しない(笑)。Tabarnakはご丁寧に全てmerdeやbordel(全くお行儀のよい言葉ではない。。。)などに置き換わっており、もはや方言というより違う言語の翻訳か?といったレベルだった。そして当然英語の部分はフランス語に置き換えられている。個人的には、オリジナル・テキストで台詞が知りたかったのだが、よく考えるとこれってケベック版のDVDでしか実現できないことなのかもしれない。。。(ケベコワ映画のワナ。。。)

さて、ストーリーについて。 

去年のカンヌのときから追いかけているので、予備知識を詰め込みすぎたのか(汗)、実は、あまり驚きなく最後まで見終わってしまった(でも、周りはすすり泣きの嵐。)。ストーリーも「親子の愛」という意味では、意外とシンプルなメッセージな気がした。

会話もダブル・ナラティブ(2つの物語が並行して進む形)で進むJ'ai tué ma mère、Les amours imaginaires 、Laurence Anywaysなどと比べると、大分シンプルになった気がした。台詞自体の量も減ったような気がするし、独白やインタビュー等、言葉による「説明」が減った分、逆に映像で「見せて」理解させるという部分が増えてより感覚的な、エモーショナルに直に訴えかける映画になった気がした(右脳的映画?笑。)。

台詞にしても、罵りっぽい台詞が続いた後に、ポッと心をえぐるような台詞が出てくるといった感じで、わりとメリハリが利いていた印象だった。これまでの作品の独白やインタビュー部分のシニカルで哲学的なセリフも自分は結構好きだったが、人によってはある意味奇を衒ったというかちょっとお高く止まっているように見える部分もあった気がする。が、今作では、そういう挿入部分がないので、ひたすら泥臭い、というか、登場人物の感じるままに荒削りな言葉たちのぶつかり合いで物語が展開するという感じがした。

ただ、自分は主人公の少年スティーブの感覚に寄り添うにはちょっと年を取りすぎており(あと、残念ながら自分はあんな純粋な心というものをとっくのとうに失っている(苦笑)&思春期の男の子の気持ちというのも女の自分には今ひとつピンときにくいところがある。)、 母の愛の深さ、大きさを等身大で理解するにはいろいろ足りなかったということもあり、今ひとつストーリーにがっつり入り込めなかった。スティーブの天使のような無邪気さ、しかしADHDで抑えることのできない暴力的な側面の対比も「残酷な現実」の設定としてはすばらしいと思ったものの、やっぱりこれも身近に感じるの は少々難しかったというのが自分の本音だった(どちらかというと自分はJ'ai tué ma mèreの母像のほうが自分の経験に重なることが多かった。)。たぶん、中高生の男のお子さんを持つお母さんが見たら、一番物語としては共感できるのではないかなという気がする。

しかし、グザヴィエの苦さと甘さが絶妙に混じったストーリー展開はやはり健在。エンディングもハッピーエンドなようなそうでないような味のある終わり方になっていた。 そして改めて、救いようのない現実に、希望を見出そうと格闘する人々の描き方がグザヴィエはほんとうまいなと感じた。希望といっても甘っちょろいフワフワしたような希望ではなく、現実としっかり向き合い地がついた希望というか、エグいまでの現実を描きながら、本当に闘った人にしか見えない一筋の光のようなものを今回の作品でも感じることができた。だからどの登場人物もある意味かっこわるい、というかがむしゃらに、必死に生きようとしている、希望を見出そうとしている、そういう姿が感動を呼ぶのかなと思った。

特に、自分も結局はなんだかんだで泣いてしまったシーンが最後の母ダイアン(フラ語だとディアンヌというような発音なんだけど。。。)とカイラとの「希望」についての会話。1年前のグザヴィエのスピーチの本当の意味がこの台詞でわかった気がした。会場にあったチラシにもあったけれど、「希望をあきらめないこと」はまさに「勇気」なんだと思った。最後にカイラが去ることを知った後、自らを奮い立たせるために泣くのを必死にこらえるダイアンの姿、実に名演だと思う。

この映画の物語の中心はもちろん息子スティーブとダイアンの「母と息子の愛の物語」であるけれども、そこにカイラという隣人が入ることで新たな「家族」の物語が生まれる。映画を観るまではカイラの立ち位置がイマイチよくわからず「?」と思っていたが、血のつながりでない(心のつながりと形容すればいいのだろうか。)新しい家族像をグザヴィエは提示しているのかなという気がした。

というかもはや「家族」という概念で人と人とのつながりは捉えきれないものなのかなという気もした。心に傷を持った者たちの共同体。自分の世代からすると懐かしいガラケーを手に3人で楽しそうに写真を撮るシーン。観客は何となく悲しい結末を予期しながら、このシーンを見ることになるのだが、3人のこの本当に幸せな様子と結末との対比に胸が本当に痛む。このヒリヒリするような痛み、やっぱりグザヴィエだ、、、と思った。幸せなシーンなのになぜか残酷。

これまでの作品(Tom à la fermeは見てないけど、知る限りでは) でグザヴィエの作品ではいろいろな形での「不可能な愛(l'amour impossible)」がテーマになっていたけれど、マミーもなんとなく希望が持てる終わり方をしているように見えつつも、やっぱり不可能な愛の映画であることは間違いないと思う。先日見たインタビューでも確か、グザヴィエはこのテーマが非常に好きと言っていた。そしてその理由が"humain(人間らしい、人間臭い)"だから、と答えていた。

報われない愛(Les amours imaginairesはまさにこのパターンだし、J'ai tue ma mereは、お母さん側からすればそういうことになると思う。)、お互い愛し合っているが「世間」の枠に最後は敗北してしまう愛(Laurence Anyways)等、つながりそうででもつながれない愛がグザヴィエの作品には多く登場する。Mommyもやっぱり愛を求めて勇敢に闘うけれどもhappily ever afterみたいな終わり方にはなっていない。

そういう意味で、グザヴィエの映画は何となく後味が苦い。でも、そこになぜか必ず感動、味わいがある。 実は、そういった人生の苦さが人間の深みだったりを作り出すものなのではないかという気がする。どんな人も、と言うと言いすぎになってしまうけれども、思い通りにいかないことも含めて人生を愛することの大切さを自分はグザヴィエの作品にいつも感じる気がする。

さて、話題となっていた1:1のインスタグラムのようなアスペクト比について。

最初、自分が思ったのは、何だかやたらと窮屈に見えるなということだった。周囲の様子が見えず、とにかく大抵の時間人物が画面の大半を占めている。特にアップだと本当に人間の顔しか見えない。顔でなくても、それぞれのパーツがとにかくフォーカスされる。表情にしろ物のディテールにしろ、とにかく全てが「見えて」しまう。

グザヴィエはカンヌのプレスコンフェレンスでemprisonner (英語のimprison)と笑いながら解説していたが、確かに、観客はグザヴィエの世界に、スティーブ、ダイ、カイラの生きる空間に閉じ込められる。そして何が起きてもそこから、逃げられない。ある意味息苦しい世界だなと思って最初の方は見ていた。

ここからは若干ネタバレになるが、実は、この映画、全部のシーンが1:1で描かれているわけではない。普通のアスペクト比に戻る瞬間が2回やってくる。これもウワサに聞いていたのでいったいどういうことなのだろうと思ったが、なるほど、、、と思った。ある意味このスクリーンの画面は、登場人物たちの心の窓の役割も果たしていたのだとこのとき気づいた。多分、多くの観客がこの横長のアスペクトになる瞬間に、おー!と思ったに違いない。とにかく映像+音楽のシンクロが美しい。スティーブが「Liberté」と叫ぶ瞬間。すがすがしいまでの「自由」がそこにある。

そして、逆にアスペクトが1:1に戻る瞬間もあるわけだが、こちらもあまりにナチュラルで映画館で見たときは実はいつ元に戻ったか気づかないほどだった。これも登場人物たちの心の揺れ動きに完全にシンクロしている。この演出本当に面白いなと思った。

そして、いつもの通り色使いがグザヴィエの映画は綺麗だと思った。特にこの映画は「青」がすごく綺麗な映画だと思う。

そして、音楽。こちらも前々からオアシスのWonderwallが挿入歌として使われたことが話題になっていた。これ、べたすぎじゃね?疑惑だったが、、、驚くなかれ、このチョイス素晴らしかった。本当にぴったり。

グザヴィエは、音楽の歌詞に物語を語らせることが結構ある。まさに、音楽が「言葉」になっている。MommyでもWonderwall以外の曲にしても、びっくりするほど曲とシーンがシンクロしていた。。。ありがたいことに日本では、ちゃんと歌にも字幕がつく(フランス語のDVDは、挿入歌はBGMの位置付けなので字幕が出ない。)。今回はほとんど英語の曲だったので(記憶にある限りでは、フランス語だったのは、セリーヌ・ディオンのOn change pasぐらいだった気がする。)、聞き取れることは聞き取れるのだが、それでもやっぱり字幕は有難い。感動が2倍になった。

Xavier監督作品のミュージック・リスト。
http://1overf-noise.com/xavier-dolan/xavier-dolan-sound-track/
私、エンドクレジットから書き起こしてたよ笑。

 On ne change pas - Céline Dion 

Wonderwallのシーンはもちろん良かったが、個人的には予告編等でもよく使われていたCounting CrowsのColorblindのシーンのほうが印象に残った気がする。曲、映像の醸し出す透明感がすごく美しかった。

 Counting Crows - Colorblind

そして、エンディングのLana Del ReyのBorn to Die。これも良かった。これも再見して気づいたのだが、最初のイントロが見事なまでに映画のエンディングとシンクロしている。そして、「愛だけではどうにもならないことがある、でも愛さずにはいられない」というこの映画の一番大きなテーマを端的にまとめている。

Lana Del Rey - Born To Die

そして、1990年代後半〜2000年代前半に青春を過ごした人たちにとっては、音楽、小道具、ファッション、雰囲気、そのどれもがすごくノスタルジックだと思う。あの頃の甘酸っぱさを自分も思い出しながら映画を見ていた。

さて、いろいろ書いたが、全体としては、いろいろな観点から見て楽しめる映画だったと思う。そして、改めて「愛」とは、「希望」とは?と考えさせられた。

グザヴィエの次の作品は英語("The Death and Life of John F. Donovan")とのことだったらしいがその前?にマリオン・コティヤールなどが出る作品"Juste la fin du monde"(たぶんフランス語?)が制作されるらしい(こちら)。

しかも、今年のカンヌでグザヴィエは審査員を務める。ほんとにenfant terribleだ。
この快進撃がさらに続くことを願ってやまない。

グザヴィエのカンヌでのスピーチの言葉、「Tout est possible a qui reve, ose, travaille et n'abandonne jamais(夢を持ち、挑戦し、頑張り、諦めない人にはどんなことも可能である。)」は、1年経った今でも常に私の傍にある。携帯の待ち受けもこの言葉だし、職場のパソコンにもこの言葉(笑)。

この言葉は、実にシンプルで、実に正論、かつ一つ一つは目新しい言葉ではない。だが、これを実践して、本当に夢を叶え、人々にインスピレーションを与え続けるグザヴィエの言葉だからこそ、大きな意味を持ち、確かにこの言葉が大きな「希望」となるのではないかと思う。

自分を奮い立たせようと思う時、自分も常にこの言葉を思い出していた。

ティーンエイジャーだった頃、「希望」なんて甘っちょろい言葉だと思っていた。何か幻想のようで、うそっぽいというか偽善を感じる言葉だと思っていた。

でも、グザヴィエのまっすぐなまでの希望のスピーチを見ていて、なぜだかわからないがその純真なまでの熱い思いにすごく心を動かされた。そして、「希望」の持つ大きな力に気づくことができた。希望こそが自分を信じる力を人々に与え、前に進む勇気を与えてくれるものなのだとグザヴィエは教えてくれた。年など関係ない。大事なことはその人がどんな生き方をした人であるか。そういうことなのだと思う。

これからも陰からグザヴィエを応援しつつ、いつかリアル・グザヴィエを日本で拝める日が来ないかと祈ってみたりする。

2014年12月21日日曜日

DELF A2に合格しました。

めったに書かないLanguage Learningについての記事ですが。。。DELFは日本語での情報量が少ない気がするので、一応備忘も兼ねて記事にしておきます。

去年、仏検の準2級を受験し、その後、やっぱり世界で通じる資格が欲しいなと思い、今年はDELF A2を受験しました(あ、でも仏検の2級も一応受けました。。。こちらも、一応1次は通過しました。。。)。当初は、DELFは結構試験の受験料が高いので、B1を受けようと思っていたのですが、未だにGoogle翻訳から離れられない自分は、文法も苦手、スペルはいつも間違ってばかり、話すのも常に不正確、、、ということで、B1のレベルはちょっと無理、と思ったのと、フレンチ・ミュージカルガラコンのスケジュールがB1の試験日とちょうど重なっていた(爆)ので、レベルを一つ落としてA2を受けることにしました。



そして、昨日、11月9日に受けたDELF A2の結果通知が届き、無事合格することができました。本当によかった。。。フランス語学校には通ってはいましたが、試験前仕事が思った以上に忙しくなってしまい、実は、試験のための勉強をほとんどできず、記念受験でも意義はある、と言い聞かせて受験しました。というわけで、当然、いろいろボロボロでしたが、正確性は低くとも、外国語で何かを伝えたいという態度は評価されたのか、思ったよりも高い得点をいただくことができたようです。仏検よりも、そういうガッツの要素が意外とこのテスト強い気がします(笑)でも、まじめな話、そういう意味で、言語の本質である「伝える」という部分に重きを置いているテストと言えると思います。なので、実際受験してみて、個人的にはこのテストはテストとしてかなり優れたテストだなあと思いました。

一応、真実味を出すために結果表の写真です。。。
左側の décision の欄にadmis(合格)とあります。
ちなみに日本語のお知らせも入っています
(見方とかも一応説明してある)。
というわけで、今回は、試験がどんな感じだったか遅ればせながら、記録として書いていきたいと思います。ただ、受験したのが1ヶ月以上前なので、記憶がかなり曖昧、不正確になっています。。。その点ご了承ください。。。また、これはあくまで私の個人的な感想なので、その辺りもご勘案ください。



■試験勉強
前述の通り、実は試験用の勉強はほとんどできませんでした(フランス語学校の授業は曲がりなりにも受けてはいましたが。。。)。読解が一番きっとわかるだろうと思ったので、読解は結局ほとんど何もせず、リスニングもテストそのものの対策はほとんどせず、フランス語学校で、先生の言うことを聞き取ろうとしていたのと、毎日、フランス語のインタビュー番組を聞くことくらいしかできませんでした(しかも、すごくよくわかって聞いていた訳ではもちろんないです。。。)。作文は、とりあえずどんな問題が出るのか確かめるため、試験の数日前に、緑色のA2の問題集の作文問題のところだけ、とりあえず回答を書き写していました(爆)。会話も、フランス語学校で先生と話していた、というくらいで試験の概要すらあまり把握していませんでした(ありえん。。。)。というわけで、全くもって準備不足でした。。。(いやはや、我ながらチャレンジャーすぎ(汗))。

■試験が始まるまで
会場に着くと、他の方のブログ記事に書かれていたとおり、本当に席は自由でした。。。というわけで適当に隅っこの席に座り、ほぼ真っ白な(汗)A2の緑の問題集をとにかく眺めて問題のテンポについていけるよう無駄な悪あがきをしていました。受験者は、学生の方も結構多い気がしましたが、年齢層はけっこういろいろでした。やはり女性がかなり多め。自由に着席しているので、試験が始まる前にまず点呼がありました。たまに教室を間違えている人がいるので、そういう人がいると係員の方が親切に正しい教室に案内してくれます。

問題用紙は回答欄も含めて一体型になっており、ホチキスで留められています(外して試験を受けても大丈夫。)。あと、メモ用の白い紙を1枚もらえます。問題は試験後、回収されます。日本の試験会場は本当に鉛筆使用が可でした。結局、自分はなぜか作文以外はボールペン、作文だけ鉛筆で書き、消しゴムを多用していました(修正テープを持参するのを忘れた。。。)。リスニングはもちろんテープが流れるので自分で時間調整はできませんが、その他の3つの試験については、自由に調整ができました(確か、それぞれ目安の時間は決まっていた気がしますが。。。)。

■Compréhension de l'oral(聴解)
今回、最も悲惨でした。点数も結局やはりこれが一番悪かったです。

私の記憶では4種類の会話があったような気がします。それぞれ4、5問問題があったような。記号で答える問題と書き取りで答える問題両方があります。ただ、書き取りもそんなにガリガリ書く必要がある設問は無く、単語で答えられるものも多かったような。会話は確か2回繰り返されたように思います。

知ってはいましたが、テープのスピードは仏検より大分速かったです。。。そして、本番、そのことに多いに焦った自分は、リスニングの基本である、とにかく後を振り返らない、集中するというprincipeを守ることができず、完全に集中力を欠いていました。。。

1問目は確かスーパーマーケットのアナウンスでした。どの野菜が安いとか、どの野菜が1キロあたりいくらとか(これ、もちろん答えさせられました。)、何かをするためにどこにいけばよいか(何かをもらいにいく設定があったと思うのですが、いろいろな場所の絵があり選択させるという問題だったと思います。)。等の問題が出た記憶です。1問目が今日はどのような日ですか?だったか、なぜ野菜が安いのでしょう、だか書き取りの問題だったのですが、言っていることが全く聞き取れず、玉砕しました。。。

次の問題が確か、留守番電話のメッセージの聞き取りでした。テニス・レッスンだかなんだかを受ける約束になっており、そのテニススクールから電話があり、次回いつどこで会いましょうと提案されるという設定だったような気がします。そして、電話番号を書き取らされました(日程を決めるために折り返し電話をするよう言われている設定。)。フランス語の電話番号は2桁ずつ言っていくので、数字が苦手な自分は大混乱。。。あと、日にちのセッティングのために、いくつか日にちが提案されていてそれも書かされたような、、、気がします。

これが3つ目だったと思うのですが、ラジオ番組の聞き取りで、確かどこかの景勝地に関する解説でした。質問はその景勝地がどこからどれくらい離れているとか、その土地で開催される行事はどんなものかとか(確かお祭りがあるとかないとかそんなことを番組内で言っていた気が。)、ラジオの番組なので、この番組はいつ 放送されているか、とかそんな感じだったと思います(もちろん、試験なので、いくつか日時が番組内に登場し、正しい日時を聞き取らなければいけないようになっていました。)。

確か、これが最後だったと思いますが、お父さんとお母さんの近日中に行われる学校の先生との面談に関する会話でした。この問題だけ、かろうじてだいたい内容を把握できた記憶です(汗)。面談の話なので、まず、いつその面談が行われるか、そして、確か、お父さんが遅刻をするという設定だったので、なぜお父さんが遅れるのか(大事な会議があるから、という理由でした。)、この夫婦の子どもは外国語を学んでいるのですが、そのことに関する質問もあった気がしますが、詳細は忘れてしまいました。

■Compréhension des écrits(読解)
自分は大問が3問あった記憶ですが、、、ちょっと曖昧。こちらは割と落ち着いてできました。。。

1問目は、選択問題だったと思います。イベントガイドのようなものが書いてあって、下のほうに、いろいろなタイプの人、グループが書かれており、それぞれの人たちにどのようなイベントを勧めるべきか選択するという問題だったと思います。

2問目は、あるパン屋に関する小さな記事についての問題でした。そのお店は、普段の感謝の気持ちを込めて、お客さんに喜んでもらうためにダイアモンドをパンに入れる、という行事をしていた、みたいなことが書いてあって、評判が良かったので今度またイベントをやるそうです、みたいな内容だったと思います。質問は、なぜ、そういったイベントをするのか、とか、次回いつイベントが行われるか、とかだったと思います。また文の内容について、正誤を答えさせる問題があった気がするのですが、そのjustificationをそれぞれの問題を書かされた気がします(それに結構びっくりした。)。

最後が確か、ホテルから送られてくる説明の書類の読み取りでした。この書類がどんな内容の書類か、(最初、DMだと勘違いしたのですが、よく見ると、ホテル内での注意事項がいっぱい書いてあり、ホテルの規則等、だと後で気づきました。)お金の払い込みのし方等聞かれた気がします。

■Production écrite(文書作成)
2題ありました。

1問目は、友達からのe-mailが冒頭に貼られていて、内容は、夏休みに一緒に旅行に行こうというお誘いのメールでした。問題は、あなたは理由があり断らなければならず、その理由と代わりの案を提案せよ、というものでした。時間が思ったよりも余っていたので、この作文も結構落ち着いてできました。というか、時間があったので、無駄にいろいろダラダラ書いてしまいました(試験ではありましたが、個人的に、いろいろな設定を考えながら、文を書くのは結構楽しかったです。)。

ただ、他の方のブログにも書いてあったのですが、やはりたくさん書くことではなく、問題で聞かれたことをきちんと把握し、それにきちんと答えることが一番重要なのではないかと思います。

私は理由として、1つは銀行でインターンシップに参加するため夏は遊べない(しかし、よく考えたら、向こうは夏はみんなヴァカンスだから、インターンなんてやってないだろうな苦笑。。。この辺り、完全に日本人思考(笑)。)、あとお母さんが手術を受けたばかりなので、家にいたい、ということにしました。代替案は、海に行って遊ぼうということにしました。

2つ目が、確かあなたは語学学校に行っていて、1日小旅行をし、友達にその様子を伝える(手紙を書く、という設定だったかな。)、という内容でした。もちろん、普通に考えれば、フランスの語学学校に自分が行っているということだったのだと思うのですが、そのとき、フランスの1日旅行だったら何をする、というのがパッと思い浮かばなかったので、日本に留学しているフランス人の人が日本で小旅行をしているという設定にして、最近自分が行った鎌倉・湘南旅行の感想を書くことにしました。。。鎌倉は山も海もあって素晴らしかった、とこれまた自分視点過ぎる感想を書いていた気がしますが、とりあえず、その旅行でしたことをつらつら書いていた気がします。

私は、学習年数からすると、周りの人が驚愕するほど 文法事項&conjugaisonが怪しい人間です。そして、元々、読解のみのためにフランス語を始めたため、スペルも辞書なしでは恐ろしく書けません(1行書くのに30分要するなんて事はザラ。)。というわけで、試験後書いた単語のスペルを確認していたら、当然、恐ろしくいろいろ間違っていました(汗)。。。

それでも合格していたことを考えると、恐らく、やはり言葉そのものの規則よりもロジックの組み立て方や理由、代案をちゃんと書くといったことのほうがやっぱり重視されていたのかなあという気がしました。A2というレベルのため、そういった細部については点数の付け方が甘い、ということも十分考えられますが。。。

この3つの試験が終了した時点でいったん解散します。

■Production orale(口頭表現)
3問ありました。受験者ごとにバラバラの時間が指定されているので、その指定された時間に集合し(私は上記の3つの試験のあと1時間ほど時間が空いていました。)、 廊下で待たされた後、4、5人同時に準備の部屋に呼ばれます。そこで紙切れを2枚選ばされて(いくつか問題の種類があるようでした。)10分準備の時間を与えられて、準備をするよう指示されます。メモ等を取ることも可能です(見ながら話してもいい。)。その後、それぞれ試験会場の小部屋へと案内されます。

3つのうち2問は、問題が2種類あり、どちらを答えるか選択することができたのですが、私はその選択を考えてオタオタしているうちに制限時間になってしまったので、これから受験する方は、その判断はテキパキ行ったほうが良いと思います苦笑。

1問目は、問題の種類は確か1種類で自己紹介でした。あなたの興味があることなどを話して下さい、とか書いてあった気がします(直接的に自己紹介してください、とは書いていなかった気が。)。

2問目は、私が選んだのは、仕事の仕方(一人でするほうがいいか、グループで仕事をするほうがいいか。)の好みを述べて、理由を説明せよといったものでした。もう一つは最近気になるテレビ番組とその理由とかだった気がしますが、最近テレビをあまり見ていなかったので、こちらは止めました。

3問目のロールプレイは、あなたは洋服屋の店員になりたいと思っており、店の店主に仕事の内容等、聞きたいことをきく、と言う設定で試験官と会話するというものでした。もう1つは確か、日本食を外国人に説明するとかそういう感じだった気がします。当初はこっちを話そうと思ったのですが、よく考えたら日本食の食材の名前をほとんどフランス語で言えないことに気づき、急遽洋服屋の問題にすることにしました。が、そんなこんなで突如方向転換してしまったので、ほとんど質問内容すら考えられないまま、試験室に入ることになってしまいました。

実際の試験ですが、、、

とりあえず、ノックすると何の反応もなく、どうしようかと思っていたら、試験官の先生がドアを開けてくれました。とりあえず、Bonjour〜と言って入りました。私の担当の方は、40代くらいの優しそうな女性の先生でした。部屋のホワイトボードには確か彼女の名前とか注意事項等が書かれていて、緊張をほぐすためなのか、なぜかスマイルマークとか絵が書いてあった気が(フランスって自由笑。)。

まず、convocation(受験票)を渡して下さいと言われたのですが、convocationが受験票のことだと認識できず「えっ?」という顔をしていると、持っていた受験票を指差されました。それを渡すとサインをしてまた受験票を返されました。

そして、試験開始。とりあえず、自分の得意な話に持っていったほうがいいと思い、名前、職業、なんでフランス語を始めたか、等々を話し、十八番のフレンチ・ミュージカル話に持っていき、無駄にいろいろ話をしてしまいました苦笑。

やっぱりミュージカルというのは意外性があったのか、試験官の方もちょっと驚いた感じでした。フランスには行ったことがあるのか、何の演目を見たのか、等聞かれた気がします。自分の得意な話をすることができたからか、これでかなり緊張がほぐれました。試験だったけれど、ミュージカルの話をするとやっぱり心がウキウキするのか、自然と笑顔になりました(これは、ちょっと奇跡。。。)。

しかし、熱が入りすぎたのかこの質問にかなり時間を使ってしまい、最後の質問の時間がかなり減りました。。。

そして2問目。私は、基本的に一人で仕事をするのが好きです、という結論で答えました。理由としては、自分はindependenteでdébrouillarde(試験のとき、eを落としてしまって、男になっていた汗。そして、この形容詞、数日前に学校で習ったものをそのまま流用。。。)な人間だからです、とか、自分はtimideなので、たくさんの人と仕事をするのが苦手だからです、等言ってた気がします。この問いはわりとあっさり終わりました。

そして、最後のロールプレイ問題ですが。。。
紙には、仕事の条件とかちょろっと書いてあった気がするのですが、とりあえず何も考えてなかったので、仕事に必要な素養は何かとか、給料はどれくらいか、とかかなりバカっぽい質問をしました苦笑。洋服店で働いた経験はありますか?等聞かれた気がします(およそ接客をするようなタイプの人間ではないので、どう答えようかどぎまぎしてしまいました苦笑)。

やばいなーと焦りながらしゃべっていたら、試験官が、もう時間がなくなってしまったからここで終わりにしましょう、とかなり尻切れとんぼでこの問題は終了しました笑。ある意味自分にとっては助かりましたが、よく考えたら時間配分とか間違っていたからその点、点数引かれてしまうか、、、とちょっと心配になりました。

試験の最後に試験官の先生が講評をくれました。あなたは、語彙が豊富なのは良かったけれど、言葉がわからないときにuh~、eh~等言うのはやめましょう、と言われました(確かに、言葉に詰まるとすぐそういう言葉を挟んでしまう癖がある。。。)。

なんだか、ためになる試験だなあと思いながら、Au revoir〜と言って試験室を後にしました。ここで試験終了。

結局、Production oraleが一番得点が高かったのですが、こちらも私、話すのはかなり文法間違いが激しかったはずなので、やはり、ガッツ重視 or A2で基準がそれほど高くなかったということだったのかなあと思います。

でも、試験後の感想としては、手応えはあったものの、聴解はまったくできた気がしなかった&文法は激しくいろいろ間違っていたので、合格への自信はあまりありませんでした。

それでも、合格できたのは、やっぱり試験が「コミュニケーション」という部分を重視していた点が自分に合っていたからなのかなあと思います。

次の級のB1、欲しいのですが、、、何しろ書けない自分、どうしようかな。。。←いや、がんばれよ。苦笑。

何はともあれ、今年、いろいろやってきたことをひとまず形にすることができてよかったです。うれしいクリスマス・プレゼント^^


2014年11月5日水曜日

Les Paroles de "Vitalie" (Rimbaud Spectacle Musical) ~「ヴィタリー」の歌詞~

前回のリシャールとランボーに関するガラコン絡みの記事からの続き。

早速、フレンチ・ミュージカル・コンサートで披露されたRimbaud Spectacle Musicalの「Vitalie(ヴィタリー)」のオリジナルのフランス語詞と日本語訳(拙訳で恐縮ですが。。。)を載せていきたいと思います。

前回のミニ・インタビュー(下記参照)に引き続き、厚かましいお願いではあったのですが、前回と同様、快く歌詞を教えてくれたリシャールには感謝です。本当にどうもありがとう!

Rimbaud Spectacle Musicalの詳細を知りたい方は、以前まとめたものがありますので、下記のリンクをご覧ください。

・アルチュール・ランボー(Wiki)→こちら
・ミュージカルの登場人物、背景→こちら
・Rimbaud Spectacle Musicaleに関するリシャールのミニ・インタビュー→こちら
・ミュージカルができたいきさつ→Part1とPart2

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まずは、この歌の背景から。
リシャールに会場であまり説明がなかったんだ、とメッセに書いていたら、下記のような説明も付けてくれたのでそちらも載せておきます(会場で販売されていたパンフの解説と被るところもありますが、ちょっとだけこちらのほうが詳しいかと思います。)。

Explication de la scène : Arthur est parti à Paris sans avertir sa mère. Il s'est fait arrêter par des policiers dans le train puisqu'il n'avait pas d'argent pour payer son billet. Il fut reconduit chez son professeur (en mentor) George. George croit qu'Arthur devrait montrer plus de respect à l'égard de sa mère, Vitalie. Arthur n'est pas d'accord. (La chanson VITALIE représente cette discussion entre le jeune poète et son professeur à propos de la mère d'Arthur)

舞台の説明:アルチュール(・ランボー)は母に事前に何も言わぬままパリへと旅立った。彼は切符代を払うお金がなくなり、電車の中で警察に 逮捕されてしまった。アルチュールは先生(師でもある)ジョルジュの元へと送り届けられた。ジョルジュは母であるヴィタリーに対してもっと敬意を払うべきだと思っている。しかしアルチュールはそうは思わない。(「ヴィタリー」は、この若き詩人と彼の教師とのアルチュールの母に関しての口論を表現している曲なんだ。)

註)リシャールは、はっきりとは書いていませんが、この歌は、1870年、ランボーが初めて家出したとき(おそらく当時16歳ぐらい。)のことを歌っている曲なのだと思います。ランボーが生まれ育ったシャルルヴィルという街(現在は、他の都市と合併して、シャルルヴィル=メジエールとなっている)は、フランスといっても、まさにフランスの外れ(ベルギー国境の街。)に位置しており、アルチュールにとっては、こんな退屈な田舎暮らし、してられるかということで、家出をしたということのようです。


シャルルヴィルの様子。アルノーさんとリシャールが
ランボーゆかりの場所を巡っています。

シャルルヴィル・メジエールの様子(恐らく観光局のオフィシャルビデオ。
後半にランボー関連の博物館などが出てきます。個人的には素敵な街に
見えますが笑。)。


もともと、アルチュールは母と大変折り合いが悪く(反逆的、前衛的な息子と、とっても厳しい、全てをコントロールしようとする保守的なお母さん、なのでまあこういう関係になってしまうのは驚きではありませんが苦笑。)、そんな母から逃れるという意味合いもあったのだろうと思います。

ジョルジュは、アルチュールの学校の先生であると同時に詩や文学の世界へアルチュールを導いた師でもあり、理解者でもあったようです。というわけでアルチュールからすると、兄、あるいは父(年齢的には6歳しか違わないのですが。)のような存在であり、母よりもむしろ頼りにしていた相手だったようです。

この家出事件の際に警察に拘束されたときも最初に連絡したのは、母ではなくジョルジュだったようです。ジョルジュはこの曲にもあるように、ランボー家(主にヴィタリー)とアルチュールの間に入って関係を修復するよう働きかけをしていたようです(ランボーを保護したときも、すぐにシャルルヴィルの家には帰さず、彼の親戚の家に滞在できるよう取り計らいをしました。)。しかし、その努力もむなしく、、、この1回目の家出のあと、すぐにアルチュールはまた家出をし、その後も家出を繰り返します。そして、ヴェルレーヌとのアヴァンチュールを始めます。。。
 
歌の主人公であるアルチュール・ランボーの母、「ヴィタリー」。
確かに意志の強そうな女性。
一応、楽曲も。00:30ぐらいから"Vitalie"の一部分が聴けます。

***********************************

VITALIE (ヴィタリー)

Paroles : Arnaud Kerane - Richard Charest Musique : Richard Charest)
歌詞:アルノー・ケラン&リシャール・シャーレ 
曲:リシャール・シャーレ
(歌詞については上記お二人のものなので、無断転載はご遠慮ください。)

(G: Georges (ジョルジュ)、A: Arthur(アルチュール))

GEORGES : Vitalie erre petite femme en noir  
Discrète et fière et sans histoire           
Vitalie erre sombre et fragile            
Entre Mézières et Charleville            

ARTHUR : Vitalie sème ses faux sourires    
Jusqu’au marché jusqu’à l’église       
Vitalie reine d’hypocrisie               

ARTHUR : Vitalie traîne son coeur de pierre 
De marbre froid de cimetière           

GEORGES : Vitalie pleure le soir venu     
Ce fils qu’elle ne reconnaît plus        

ARTHUR : Vitalie elle je la méprise      

GEORGES : Mais qu’a t-elle fait de si terrible ?

ARTHUR : Vitalie elle détruit ma vie      
                             
GEORGES : Vitalie elle tu la détestes    

ARTHUR : Dans chaque vers dans chaque geste 

G+A : Vitalie elle détruit (ta) ma vie           

G+A : Vitalie perd fils et mari                

ARTHUR : Sut-elle vraiment nous retenir 

G+A : Vitalie c’est (ta) ma déchirure    

GEORGES : Ta mère Jean Nicolas Arthur 
        Ta pauvre mère                                       
GEORGES : Ta mère               

ARTHUR : Mon ombre              

G+A : (Mon) Ton sang              

G+A : Complice                   

G+A : Vitalie saigne se sacrifie         
         En nous toujours sommeille              

A : Un mauvais fils                    

G : Un mauvais fils 

****************************
 
 (日本語訳)

*詞なので、わりと自由に訳してしまっている(文法通りでない)ところや、訳出上、仏語の文と語順が異なっているところがあります。というわけで、あくまで参考程度に読んで頂ければと思います。
仏語的な観点に興味がある方用にちょっと注釈もつけておきました。ご興味がある方はそちらもご覧ください。(内容は、前回の記事に載せた「ヴィタリー・ランボー-息子アルチュールへの愛(クロード・ジャンコラ著)」やWiki情報を参照しています。)。
                    

ジョルジュ: ヴィタリーは彷徨う*
         彼女は、小柄な女性で黒い服を着て
         質素で誇り高く、平凡な生活を送っている**
      
         ヴィタリーは彷徨う
         メジエールとシャルルヴィルの間で
         彼女は、陰気で脆い人間だ***

*errerという「さまよう、さすらう」という意味の動詞が使われていますが、これはおそらく、その後に出てくるelleと韻を踏むために選ばれたことばだという気がしますが、どこに行ったかわからない息子を探して、実際に奔走したヴィタリー、または、そんな息子を探して精神的にも、彼女の心はさまよう、といった感じだと思います。

**ヴィタリーの保守的な様子の描写。農民出身の彼女は、幼い頃に母親を亡くし、若いころから家を取り仕切る役割を担わなければいけない状況にあり、大変苦労をしたようです。というわけで、質素こそ美徳と思っていた女性であり、息子アルチュールは、このような「平凡」「平穏」な生活をする母を侮蔑しているわけです。 

*** sombre(陰気) et fragile(脆い)とありますが、ヴィタリーはやはり上記のような人生を送ってきた女性のため、決して愛想のよい女性とは言い難かったようです苦笑。しかし、アルノーさんとリシャールはここで彼女について「fragile(脆い)」という表現も同時に入れています。彼女は、表面上、厳格かつ強気な女性だったわけですが、その奥に、子どもの家出に激しく動揺する「脆さ」も同時に併せ持った二面性を持った女性ということを二人は表したかったのではないでしょうか。以降、ジョルジュの歌詞にはヴィタリーの「隠れた顔」とも言うべき面が語られます。

アルチュール:ヴィタリーは偽りの微笑みを振りまいて*
            市場や教会においてまでも**
           ヴィタリー、偽善の女王

*ヴィタリーは、周囲の自分や家族の評判を非常に気にしていたといいます。当時、珍しかった母子家庭であったこと(後半に父の話がでてきますが、アルチュールの父は彼が幼いころに家を出ていました。)、等、世間から後ろ指を指されてはいけない、との半ばプレッシャーのような思いがそうさせたのではないかと思いますが、とはいえ、そんな表面だけ繕ったような生活を送る母をランボーは痛烈に批判している、というわけです。

**保守的なヴィタリーは、大変信心深いクリスチャンでもあったといいます。つまり、教会に絶対の信頼をおいているような人間であり、彼女の生活範囲というのは、まあ教会、市場、それぐらいの狭い範囲なんだ、といったアルチュールの侮蔑の意味合いがここには、含まれているのかもしれません。

アルチュール:ヴィタリーはいつも墓地の大理石の墓石のような冷徹な心の持ち主で*

*traînerという動詞の本来の意味は引きずる、ですが、そういう心を引きずる=いつもそういう冷たい心のままだった、ということなのだと思います。「優しい母」像とは全く逆ですね。しかし、ジャンコラさんの本にも書いてあって、ああと思ったのですが、父がいなくなって以降、ヴィタリーは母親であったと同時に家の権威としての父親の役割も同時に果たしていたわけで、「愛情深い母」でいることはできなかったと考えることもできるのではないでしょうか。

ジョルジュ:  ヴィタリーは夜が来ると、泣いている
           この息子はもう私の知っている息子ではないと

アルチュール:ヴィタリー、おれはあいつを軽蔑している

ジョルジュ:    でも、彼女は何かそんなひどいことをしただろうか?*

*ジャンコラさんの本を読んでいた限りだと、ジョルジュは、ヴィタリーがアルチュールを抑圧しているということは理解しており、アルチュールに同情するところも多分にあったようですが(ジョルジュ自身、ヴィタリーから「息子に悪いことを吹き込んだのはお前だろう」といったようなことも言われていたようです苦笑。)、それでも、彼を家に送り届けたり、やはりジョルジュは先生として、あるいは「兄」として、家族なんだから、という思いがあったのかもしれません。でも、このような中途半端ともいえる思いが、若きアルチュールには気に食わなかったんでしょうね笑。

アルチュール:ヴィタリー、あいつは俺の人生をめちゃくちゃにした

ジョルジュ:ヴィタリー、きみは彼女をひどく嫌っているね

アルチュール:言葉の一言一言、振舞い一つ一つにも*

*これは、ジョルジュの「きみはひどく嫌っているね」を受けているので、アルチュールが言葉、行動すべて気に食わない!と言っているということなんだと思います。言葉に当たる語は、vers(通常は、「詩句」の意味)が使われていますが、ここでは、 「詩」では意味が通じないので、言葉と意訳しました。

2人:ヴィタリー、あいつは(君の)俺の人生をめちゃくちゃにした

2人:ヴィタリーは息子と夫を失った*

*息子はもちろんアルチュールを指すので、彼が家出をした、さらには、心、精神的なつながりについては、まったく彼女の元から離れてしまったということをperdreという語で表しているのだと思います。そして、アルチュールの父、すなわちヴィタリーの夫フレデリックは、軍人だったのですが、元々留守がちであった上にヴィタリーと折り合いが悪く、アルチュールが幼いうちに家族を置いて家を出て行きました。(ヴィタリーは、以後、彼が生きている間も「寡婦」として生きていたそうです。)頼るべき夫もおらず、また期待を掛けていた息子にまでも愛想をつかれた、ちょっとかわいそうなお母さん。。。

アルチュール:あいつは俺たち*を引き留めておけると思っていたんだろうか?

*nous(私たち(ランボーなので、俺たちとしましたが。))は、ここでは父とアルチュールのことを指しているはずです。retenirは引き留める、留まらせる。ここは反語だそうなので、いや、引き留められなかった。→前述のように、夫と息子を失った、ということを半ばえぐるような形でアルチュールは表現しているわけですね。ここにも、アルチュールの母への侮蔑の気持ちが溢れています(苦笑)

2人:ヴィタリー、それは(君の)俺の心を引き裂くもの*

*déchirureは辞書を引くと裂け目、破れ目、悲痛な思い等の意味が出てきますが、ここでは、動詞のdéchirer(引き裂かれる)を名詞化したような感じで訳してみました。心を引き裂く→激しい苦痛を与えるもの、ひどく苦しめるもの、ということなのではないかと思います。また一段と激しい母への憎悪を感じさせる言葉です。。。

ジョルジュ:君のお母さんじゃないか 
      ジャン・ニコラ・アルチュールよ*
      気の毒な君のお母さん

*突如、ジャン・ニコラ、と出てきて誰?と思ったのですが、ランボーの本名は、Jean Nicolas Arthur Rimbaud。というわけで、本名を全部呼んでいる、ということです。

ジョルジュ:君のお母さん

アルチュール:俺の影*

*母が常に自分の人生に影を落としている、といった意味でしょうか。また、英語版のWikiを見ていたら、アルチュールは母のことをbouche d'ombre(影の口)と陰で呼んでいたようです。

ジョルジュ:(俺の)君の血*

*sangは文字通り、血、ですが、血縁、「血は争えない」の血、ということだと思います。 つまり、ジョルジュからすれば、そうはいってもヴィタリーは血を分けた君のお母さんなんだよ、ということであり、アルチュールからすると、いまいましい、「血」が自分の中にも流れているんだ、ということなのかもしれません。

2人:共犯者*

*原文のCompliceという言葉。この単語は、ヴィタリーとアルチュールの関係性を実に鋭くいい当てている言葉だと思うのですが、こちら訳にとっても迷いました。辞書的な意味は、訳にも載せたように共犯者ですが、実際にここでアルノーさんとリシャールが表現したいことは、おそらく、この親子は、性格が正反対のようで実は似た者同士、むしろ切り離せない、お互いを必要とする関係にあった、ということなのではないかと思います。

というのも、ジャンコラさんの本にもあったのですが、実は、母ヴィタリーも当時夫に帯同して行動するのが一般的な時代に、夫の赴任先に一緒に行くことを拒否したり(これは彼女の選択)、母子家庭で女手一つで4人の子どもを教育熱心に育てたり、現代の言葉でいえば、だいぶフェミニスト的視点を持った女性であったそうです。というわけで、思考としては大変保守的だったかもしれませんが、その一方で「自立した女性」という意味では、「時代の最先端を行く女性」であり、そういった意味でアルチュールはそんな母の「伝統と権威に楯突く」という性質を受け継いでいるともいえるわけです。このように対立しあうのも実は似すぎているから、結びつきが強すぎるからということを端的に表した言葉だと思います。簡単に言うと愛しすぎて、憎いみたいな感じ(笑)でしょうか。アルノーさんとリシャールの詞のセンスが感じられる言葉です^^

2人:ヴィタリーは血を流す*ほどに、自分自身を捧げた

*saignerは文字通り、血を流すという意味ですが、それほどまでに子供たちに期待をかけ、自分のすべてを犠牲にして、育てていたということを表した言葉だと思います。まさに血の滲むような思い。ここ、実はジョルジュ、アルチュールの2人で歌う箇所になっています。最後の部分だから、ということももちろんあるのかもしれませんが、ひとつ前の部分でcompliceという2人の関係性が明らかになった後なので、アルチュールも母を肯定?するような歌詞を歌っているのかもしれません。 もしくは、そんなことしたって、俺から自由を奪うことなんてできないんだぜという反骨精神か。。。笑。こうなるともうイマジネーションの世界ですが。

2人:我々の中には常に親不孝な息子が潜んでいる
   親不孝な息子が

   

さて、最後の部分。ここがまさに、リシャールがヴィタリーの本にサインをしてくれたときに書いてくれた部分ですが(ミニ・インタビューの中でもリシャールはこの部分について触れていたはず。)、詞全体を読んで、なぜリシャールがここを選んだのかやっとわかりました。En nous(私たちの中)となっているところからもわかるように、これは、アルチュール、ジョルジュの対話という枠を超えて、すべての人に、というちょっと普遍的な話になって終わっています。

この「我々の中には常に親不孝な息子が潜んでいる」 という言葉、確かに、、、と思いました。自分は基本的には「優等生」と呼ばれて過ごしてきたタイプの人間ですが(爆)、それでもいつもそういった「反逆児」の自分を心の中に感じていました(それが出ちゃうこともあったけど笑。)。というわけでこの文、そうそう、これすごいわかる!と思って読んでしまいました。

さて、全体を通しての感想ですが、2人のやりとりとしては、リシャールの説明にもある通り、怒れる若き詩人をなだめる先生の「会話」といった感じですが、最後のcomplice然り、「En nous toujours sommeille un mauvais fils」然り、ヴィタリーの二面性をジョルジュに語らせているあたり、人間の複雑さ、皮肉、生々しさ、等々、「美しいだけではない真実」を描いている気がして、おもしろいなあと思いました。そのほかの曲もきっとこういった人間の奥深さ、複雑さを感じさせてくれる曲がいっぱいあるのではないかと期待。。。

言葉の選び方を見ても、普段あんまり見かけない文学的な言葉(単に自分のフランス語が足りないだけ疑惑もありますが苦笑。)が入っていたり、韻が美しく踏まれていたり、芸術度も高いなあといった印象を受けました。

いずれにしても、やっぱり、早く実際の舞台を見てみたいなあと改めて思いました^^

リシャール、公演実現への活動、ぜひぜひがんばってくれ。。。




*和訳に当たって、いろいろな示唆を下さったMewさん有難うございました。
そして、フラ語の歌の構造が全くわからない中丁寧にいろいろ教えてくれたAさんもどうもありがとう。 

2014年6月1日日曜日

Xavier Dolan - "Mommy" 25歳でケベックのグザヴィエ・ドランがカンヌで審査員賞を受賞

いつもはほとんど興味を持たないカンヌ映画祭だが、カンヌのニュースをちらちら見ていたら、ケベック出身のグザヴィエ・ドランが監督した"Mommy"がとっても話題、という記事を発見して、ちょっと興味を持つ。

グザヴィエ・ドランについては、10代の頃から映画を制作していて、すごく高い評価を受けている、ということは耳にしていたし、去年、フランス映画祭で確か彼の「Laurence Anyways(わたしはロランス)」が話題になっていたので、何となく認識はしていたものの、何だか色使いが派手だなと思って、自分が好きなジャンルではないだろう、と勝手に判断し、実は映像等はきちんと見たことがなかった。

でも、何となくやっぱり気になって、最新作"Mommy"の映像を見たところ、「おー!」と思わず叫んでしまった笑。インスタグラムみたいな1:1のアスペクトの映像の中に少年の瑞々しさがまさに閉じ込められている!!!美しい。お話としては、ADHDの少年とお母さんとの物語らしい。
→追記:2015/04/30 マミーを鑑賞しました→感想はこちら。
Xavierのマミーに関する面白いインタビュー(音声/英語)→こちら。 マミーの背景を詳しく語ってくれています。


追記:最新のtrailerが公開に。




そして、Laurence Anywaysもちょっと気になってしまい、とりあえず、あらすじを読んでみると(基本ネタバレしてから映画を見るという世にも無作法な人間(苦笑)。)男性として生きてきた恋人がある日、自分は本当は女として生きたいんだ、と告白し、相手の女性は一度は拒絶しつつもそれを受け入れようとするというすごく複雑な愛の物語…。監督のグザヴィエ自身がゲイを公表していることもあって、「愛」といっても、実に様々な「愛」と愛に対するチャレンジが語られているらしい、ということを知る。

下記でリンクを貼付けたインタビューはLaurence Anywaysの頃のインタビューなのだが、グザヴィエは、この設定について(4:40あたり)、2人の主人公がこれまでの2人の愛を、ラベルや言葉を抜きにしてその愛を貫けるかということを観客に考えて欲しかったというようなことを言っている気がする。今まで男と女という「一般的」なごく普通の愛だったのに、突然、相手が、本当の自分の性は違う、でも、君を愛している、と言われるというのは、本当にchallengingだと思う。二人の人間の愛という意味では関係性は変わらないのかもしれないけれど、その周りにあるコンテクストはまさに一変する。実に興味深い話…。

後日、映画を実際に見てみたが、ストーリーも本当に面白かったし、2人のemotionが痛々しいまでに感じられて、まさに宣伝どおり"special"な愛の物語だった。そして、実際、男と女という「ラベル」が2人を最後まで苦しめるストーリーになっていた。。。特に、フレッド役のスザンヌの演技は心打たれるところが数々あって、ホロリとさせられた。

現実にはありえない色使いや映像が随所にあるのも、いつもの自分なら結構気になってしまうのだけれど、この映画ではそういったちょっとオーバー目なtheatricalな演出が逆に2人の痛々しいまでの感情を引き立たせていてすごく良かった。

「男」、「女」というラベルについてどう考えるか、そして、それを取り巻く愛、というのはこの映画のテーマの中心ではあるけれども、 同時に自分はこの映画は「本当の自分になりたい(彼の場合は女になりたい、という願い)」というある意味人間としての根源的な願いを叶えようとした一人の「人間」の奮闘物語という要素も結構ある気がした。女性の姿で職場である学校の廊下を堂々と闊歩するシーンは見ているこちらもスカッとする気がした。

DVDには特典映像として、グザヴィエ自身が編集段階でカットしてしまったシーンの解説DVDが別についているのだが、そこでどういう意図で数々の場面を撮っていたかがわかってなかなかこちらも面白かった(個人的にはカットしたシーンではなく、映画全編の解説をしてもらいたかった!)。

あと、ケベック独特の文化観というのも非常に興味深かった。わかりやすいところでは、随所に英語がスポット的に登場する。フランス語の映画なのだけれど、風景はフランスとは全く違って、近代的(もちろんフランスにも近代的な場所はあるとは思うんだけれど、やっぱり何かが違う。)で、とても新鮮な感覚の映画に自分には映った。

さて、グザヴィエ・ドラン、前述のとおり、ケベック出身ということで、もちろんフランス語が母語なわけだが、英語ももちろんぺらぺらなので、英語の番組には英語で話している。というわけで、英語のインタビューもちらちら見ていると、「あなたはケベック(orカナダ)の映画製作者ですか?」といったような質問をされているのを何度か見た。

たとえば、これ。5:40あたりで、司会者が"Do you identify as a Quebec film maker?"と聞いた後に(グザヴィエはもちろん、"Sure, yeah."と言っている。)では、Canadian film makerでは?と質問すると、苦笑するグザヴィエ。Sure、といったん言った後に、「いや、カナダに住んでるからカナダ人だとは思うけど、"No, well I define myself as a Canadian person, because I live in Canada. But I define myself as a Quebecois film maker  because my films are soaked with the Quebecois attitude and culture language and vocabulary and the history, so yes I define myself as a Quebecois film maker." と答えている。

つまり、自身の映画はケベック文化にものすごく影響を受けているので、自分はカナダ人ではあるけれど、ケベコワ映画製作者だと思う、ということを述べている。この辺りの受け答えから見ても、ケベックという土地が非常に微妙な立場にあるんだなということが伺える(伝統的にもちろん、独立指向が強い地域ではあるけれど、最近、ケベックであった選挙の争点の一つが確か独立指向かどうかみたいな話がになってこの話がまた再燃していたような気がする。)。と同時に、ケベックの人がその独自の文化に大きな誇りを持っていることも伺えるトークな気がする。 



カンヌのMommyのpress conferenceでも同様の質問が。
40:00あたりで、もしパルムドールを取ったら(結局こちらは取れなかったけど。)canadian victoryかそれともquebecois victoryか?というもっと意地悪な感じの質問をされている。
そして、このときも一同、「あー、またきたわねー。」みたいな笑いを浮かべている。
ケベックの人からするとこの手の質問は、もうclicheなのかも笑。

このときグザヴィエは、以下のように答えていて(合ってるといいけど)、
"whatever my political views are or my view points, I feel like my movie is very Quebecois but it would certainly be an international victory. [...] For me it's not about country or province or old dilemmas or wars that my generation don't associate with or relate with any more by the way, it would just be an extraordinary message to the people of my age and to my generation I see it as, I guess as a hope. And the movie is I would like to think it is; filled with hope. [...] trying to prove to people that they should express themselves no matter what their age is or so that would the way of seeing it rather than victory for a country, which would be great because it would be that would be [?] you know it would be part of our own national history and that would be great that is [?] and beautiful [...]"

要するに、映画はどこかの国とか地方とかの所有物ではない。この映画は、僕たちの世代へのちょっと変わったメッセージだと思う。そして、映画は希望であるべきで、年齢にかかわらず表現したいと思うことを表現すべきだ、ということを言っているんだと思う。政治的な配慮をした発言とも取ることができると思うけれど、自分としては、これはグザヴィエ自身の率直な思いなのではないかと思う。

(ちなみに、この質問を行ったちょっと意地悪な記者のMommyに関する記事はこちら(英語)。まあ、記者なのでこういう鋭い質問をするのは仕方ないことなのかも。)。

もう一つ、このインタビューで面白かった話が、グザヴィエの「タイタニック」に関する話。グザヴィエはタイタニックが大好きらしいのだが、インタビューでその理由を熱く語っている。

"True, so true. It's more than a thing, it's an obsession! When I was a kid and saw Titanic [...] it actually taught me "think big". [...] Someone calls her and says "can you tell me, alright you have all my attentions Rose, it's an actual quote, "[...] can you tell me who's the young woman on the drawing is, oh, on the picture is?"and she says: "Oh, the young woman on the picture is me" then the cut, to the chopper shot and the ocean and you're moving toward the boat and.. it's like a rhythm.. bang! you know, and no time to lose.. waste, sorry... it's just the sense of, notion of rhythm and story telling you know, American people are so good at telling stories and European cinemas are so focused often on doing cinema. And Americans are telling stories and do it well. And Titanic does that well."

冒頭のほうは、グザヴィエがフィーバーしているのがなかなか面白い(笑) 。
実際、グザヴィエは、8歳のとき、ディカプリオにファンレターを出していたらしい。
タイタニック5回見ました。とか、ぜひ共演したいです!と自分を売り込んでいるところがかわいい。と同時に、カナダではいっぱい映画が撮影されているんです(これは事実らしい)、とデータの裏付けを書いてあるところがなんかすごい。。。
http://www.lefigaro.fr/cinema/2014/05/27/03002-20140527ARTFIG00148-quand-xavier-dolan-8-ans-ecrivait-a-leonardo-di-caprio.php

そして、Mommyのコンフェレンスのときも、タイタニックについてちょっと触れている。

"I've also watched a lot of movies when I was a kid, maybe not movies the type of movies that you like (but) the type of the movies that kids like and there are many many codes out there that are very interesting, [...] there are a lot of craft to observe and learn from either because it's good or doesn't feel alright, but I think as a kid, I was fascinated with those codes and those rules. I don't know if I'm gonna talk about Titanic, I feel like we should... (laugh) When I saw Titanic, it dawned on me that there was an actual thinking in film making in order to [?] a moment when something should happen and a moment that should not music when... why... the costumes directing and also it was so ambitious that is sort of gave me the courage, maybe not the courage, but faith in crazy and ambitious ideas and I'm not afraid of that ambition that I'm not scared of people will not like it or will hate it or I don't fear that 'cause you mentioned fear; I have fears, I have the fears falling on those red steps, I have the fear stuttering when I shouldn't but I don't have a fear of telling a story and creating it with people that inspired me."

イメージとしては、映画監督というと、好きな映画は、と聞かれるとクラシックな著名な監督(映画に詳しくない自分からすると縁遠い映画笑。)の作品を挙げるイメージがあると思うが、 グザヴィエの場合は、割と最近の作品で、かつ大衆ヒット映画の代表格みたいなタイタニックを好きな映画として挙げているのがすごく新鮮だった。

しかし、その理由は、結構もっともなところがあり、Laurence Anywaysのクリップでもコンフェレンスのときも"think big" だったりambitiousであるべきだということを自分に教えてくれた作品だから、ということが述べられている。また、アメリカ映画はストーリーテリングに非常に優れていて、ヨーロッパ映画は「シネマ」を撮るということにフォーカスしていることが多いという指摘も結構個人的に面白かった。言われてみると確かにそうういうところあるかもという気がした。

Laurence Anywaysも、確かにヨーロッパ的な情緒のあるお話という部分もあるけれど、話の流れや組み立て方というところにすごく注意を払っている映画(そういう意味ではアメリカンな映画)だという気がしたので、そういう意味でもケベックというのはいろいろハイブリッドな感覚を持ち合わせた人たちなんだろうという気がする。

そして、クロージング(授賞式)で結果的にはパルムドールを逃したけれど、審査員賞を受賞したグザヴィエ。
受賞スピーチもまた、「僕たちの世代」についての感動的な話をしている。
男性では珍しく素直に感動の涙を流している点もなんだかすごく人間らしくて好感が持てる。


グザヴィエのスピーチは35:00辺り。フランス語と英語が混じったものになっている。

ここに掲載されている訳にもあるように、
"ce métier pour aimer et être aimé. C’est en quelque sorte la revanche des Amours imaginaires.(この仕事が、愛し、愛される仕事であることを実感しました。これはある意味『胸騒ぎの恋人』のリベンジなのです。)"という表現がすごく印象に残った。自分が振られてしまう役を演じていた映画に掛けている?ところもちょっと面白いんだけれど、愛し、愛されるという表現が、映画は作品そのものだけで存在するのではなく、見る人がいて初めて作品として存在するんだ、ということを改めて思い出させてくれる文章な気がした。

そして、若者へのメッセージ。上記に載せたコンフェレンスの話と被るところもけっこうあるけれど、最後のフランス語の部分が一番端的に彼の言いたいことを表しているように思う。

"En bref, je pense que tout est possible à qui rêve, ose, travaille et n'abandonne jamais. Et puisse ce prix en être la preuve la plus rayonnante" 
(文は、上記のフランス語版の全文スピーチより抜粋。)

英語だと
"In short, I think that anything is possible for those who dream, dare, work and never give up. And this award would be the most radiant proof."
こんな感じになると思うので、まさに、あきらめず、ambitionを持って取り組めば必ず何かを掴めるんだという若者から若者へのエールになっている。個人的にoser (dare)という単語を使っているところがグザヴィエらしいというか、若者らしいなと思った。思い切って~するというプラスの意味もあるけれど、ちょっと反逆的というかそういう意味合いもあるので、そういう意味でもちょっと粋な単語だと思った。

ここで重要なのは、若者と同世代であるグザヴィエが若者に向かってメッセージを発しているところだと思う。年上の世代が「若者よ、大志を抱け。」というのは、それはそれでいいけれど、やっぱり何となく上から目線というか、そういったところがあるけれど、同世代の人間が同世代に向かって夢は大きいほうがいい!と自信を持って言っているというのは、ものすごく大きな意味を持つように思う。

とりあえず同世代(ほぼ)の人間として、大きな拍手を送りたい。

*どうでもいいトリビア。
グザヴィエのお父さん(Manuel Tadros)は2002年のロミジュリ(ケベック版)に大公役として出ていたようで、ベンヴォーリオ役として出ていたMattやMattの奥さんはグザヴィエとも知り合いのようです笑。

彼は、グザヴィエの映画(J'ai tué ma mèreやLaurence Anyways)にも端役で登場しているようですが、なぜかどちらもアパートを見せて回る不動産エージェント役笑。グザヴィエのお父さんとお母さんはグザヴィエが幼い頃に離婚しているようですが、こんなところを見ても今は仲良しな親子のようですね。

2014年4月23日水曜日

フランス語、語学学校デビューをしました。〜Premier jour à l'école de langue française〜

更新が全くできていない今日この頃。
フレンチネタがあるにはあるけど、最近ちょっと腑抜け状態でした。。。

実は、先週、人生で初めて語学学校で授業を受けました。
自分は帰国子女ではないので、英語は中1から他の人たちと同様に勉強して学んだわけですが、学習塾で受験のために英語の授業を外部で受けたことはあっても、いわゆる語学学校には行ったことはありませんでした。



が、しかし、フランス語を適当に勉強し始めて、はや2年半ほどにもなり、独学の弊害が最近目立つようになり、、、(文法がちゃんと理解できてない、スペルとかちゃんとできない、活用もちゃんとできないから話せない等々。。。)やっぱりフォーマルに語学学校に行ってみようと思い立ちました。

というか純粋にフランス語能力が伸び悩んでいるというのが本音でした。
最初の頃は英語のtransferでひょこひょこ進んできたけれど、ここに来て、本当どんづまり。。。自習ということで、好きなだけ怠けられるというのも弱点でした。(あ、これは私の問題ですが。)。

若干遅いですが、Joyeuses Pâques!うさぎファンとしては
たまらない季節です。。。

で、さあいざ語学学校に行こうと決心したわけですが…。

独学者の人が語学学校に行こうと思って、まず持つであろう悩み。

どのレベルに入るか。

自分の場合、書く、話すは悲惨レベルで、聞くも△、読みはわりとできる(といっても、英語の力を借りている部分が多分にある。。。)、というアンバランスなスキルであることがまず悩みどころなのですが、かといって、超基礎レベルから始められても、それはそれで、自分のモチベーションが下がってしまうので、さて、どうしよう、という話になってしまうのです。

元の写真はもうちょっと赤がきつくないのですが、、、
すっかり春になりました。。。

で、今回、いろいろ悩んだ挙げ句、実は翻訳の授業、しかも中級の授業を取ることにしてしまいました。
先週が初めての授業だったのですが、結果としては、う、、、まずった、と思いました。

これは、この語学学校の授業内容や先生がどうとかという話ではなくて、自分は、翻訳、というものの本質を見誤ったとまず思いました。。。

というのも、翻訳の授業って、よく考えると実はフランス語、ではなくて、日本語について考える授業だったりします。自分は、中級だから文法の説明をしてもらえるかな=中級文法の勉強になるかなという意味合いも込めてこの授業を取ってみたのですが、実際には、周りの方は文法をさらっているのは、そもそも当然であって、彼らががんばっているところはそんなレベルのところではなく、どのような日本語を用いれば、的確に状況を説明できるか、という日本語の運用法についての部分でした(汗)。



というわけで完全においてけぼりを食らった私。。。

翻訳の授業を取ることにしたのは、今仕事でやってる翻訳とちょっと関わりがあるから、あと、普段フランス語の記事を翻訳してブログに載せるにあたって、やっぱり自分のフランス語力の低さにイライラする機会が増えたからでした。

あと、しばらくは、フレンチミューネタが下火になりそうだったので、とりあえず、今必要なのはリスニングとか、スピーキングじゃなくて、翻訳かな、と思ったというのもあります。

が、が、が、この感じだと、自分が勉強したい「フランス語」についての学びができない&結局日本語の勉強になってしまうということになり(いや、この点は翻訳のミソではあるので、大事なことは重々承知なのですが。。。)、やっぱりもっとストレートに文法の授業か、仏検対策とかの授業にするべきだったという気がしてしまいました。

今更、授業変更とか、どうしようと悩み中です。。。

授業の内容も、あんまり興味ないニュースとか、小説とか、どっちかっていうと、自分が翻訳したいこと、知りたいことから離れてしまうので、それも授業をdropしたい理由の一つ。。。

自分の興味があることをのびのびできるフランス語の授業ってやっぱりないんだろうか?
プライベートレッスンとかもちろんあるけど、高いしなあ。。。
いろいろ悩み中です。。。


2014年3月23日日曜日

The power of vulnerability 〜自分をさらけ出すこと〜

フレンチミューとは全く関係ないですが…。無理矢理Language Learningにくっつけてみる苦笑。

韓国のよなよな話を書いているときに、たまたま見つけたTED Talkの映像。スーパープレゼンテーションという名前で、毎週セレクトされたトークがEテレで放送されていている。結構お気に入りでときどき見ていた。

最近、TED Talkにすごいアーカイブがあることを今更知った笑。

しかも、すごいのが、PCだと、interactiveでスクリプトが見れる(映像中で話されている部分が下線で逐一示される。)。しかも、トークにもよるけれど、かなりの数の言語の訳が見れる。素晴らしすぎる。

ラインナップを見ると結構おもしろそうな人、話題のトークがいっぱい。気になったものをいくつか見てみた。
その中で特に面白かったのが、Brené Brownさんのvulnerabilityとshameについてのトーク。

この2つのトーク、かなり話題になったものらしい。
まず第一弾。vulnerabilityについてのトーク。

"Brené Brown: The power of vulnerability"

大きなテーマとしては、人とつながるには、自分をさらけ出して、vulnerableになる/ imperfectであることを受容することが不可欠だ、ということ。そういうことを実践している人は、人間関係が上手くいっているのだという。彼女はこのような人々の状態をまずwholehearted(あるがまま)な状態と名付けたそうだ。
"in order for connection to happen, we have to allow ourselves to be seen, really seen."
"They fully embraced vulnerability. They believed that what made them vulnerable made them beautiful." (Theyは、人間関係がうまくいっている人。) 

実は、この結論は、彼女にとって全く予期しないもので、この結論に最初に行き着いたとき、彼女はnervous breakdownに陥ってしまったのだという(だが、セラピストはこれをspiritual awakeningと呼んだらしい笑。)。

最初のうち、なぜこれが、nervous breakdownにつながるのかよくわからなかったが、おそらく、研究者というのは、なにかわからないものをはっきりとわかる形にする(彼女はcontrolやpredictablityという言葉を使っている。)ことが仕事なのに、vulnerabilityというのは、そういった「はっきりわからないもの」を許容するという側面が往々にある(たとえば、wholeheartedな人は、可能性が低い高いに関係なくとにかく人と関係性を持とうとするタイプの人であるらしい。)ので、人間関係の構築にvulnerabilityが不可欠だ、という結論は、曖昧さを許容することになり、すなわち、研究者失格だということにつながる、ということのようだった。(あくまで自分の理解なので、あまり自信はないですが。。。)
There was only one variable that separated the people who have a strong sense of love and belonging and the people who really struggle for it. And that was, the people who have a strong sense of love and belonging believe they're worthy of love and belonging. That's it. They believe they're worthy.
そして、ブルネーさん曰く、人間関係のうまくいっている人とうまくいっていない人の唯一の違いは自分自身が愛される/存在する(belonging自体は何かのグループに帰属するといった意味が直訳ですが、要するにそのグループにいることに値するという意味なのかなと思いました。)に値する人間である、と本人が感じているかどうか、なのだという。

で、その感覚に不可欠なのが、上記に挙げたvulnerability。
vulnerabilityはshame(他の人に拒否されたり、否定されたりする)へとつながる可能性が常にあるので、人はそのshameにまつわる悲しさ、不快感から逃れるために、vulnerabiltyを麻痺させ(numb)ようと、さまざまなaddictionに走ることがある。が、ここで忘れてはならないのは、麻痺するのは、マイナスの感情のみならず、プラスの感情も含まれているという点だとブルネーさんは言う。つまり、vulnerableな感情を押し殺せば、不快感を消すことはできても、同時に喜びや幸せ、感謝の気持ちといったものもなくなってしまう、ということなのだという。

確かに、何かいやなことを忘れてしまおうと思うとき、そういえば、「無」というか「無気力」の感覚に近い気がした。そして、この無気力な感覚は、実は、「マイナス」の気持ちよりも時に、すごく気が滅入る気がする。

というわけで、vulnerabilityあるいはwholeheartedで、自分を愛することこそが本当の意味で幸せになるには不可欠だという話になってくる。

最後に、ブルネーさんは、「perfect」な(ある意味、ありもしないパーフェクトさ)自分ではなく、ありのままの自分を愛すること("We're enough"と思えること)こそ、実は、他人に対する愛、優しさにもつながる、という話でこのトークを締めくくっている。

そして、第二弾。こちらはShameについて主にフォーカスを当てている。
最初のほうは、前回のスピーチでの反響等について、ジョークを交えて語られている。

"Brené Brown: Listening to shame"



こちらのトークで印象的だったフレーズがこちら。
"vulnerability is our most accurate measurement of courage"
vulnerabilityは、「弱さ」の象徴ではなく、実は最も正確な「勇気」のものさしだという意味だが、言われてみれば、ああ、とは思うものの、こういう風に言葉になると何だかすごく新鮮な気がした。

確かに、vulnerabilityを恐れず生きる人たちは、失敗するとかそういったことはまず置いておいて、とにかくやってみるタイプの人だと考えたとき、それはまさに「勇気」 のものさしだというのは、すごく納得する。

そして、もう1つ印象的な引用がこのスピーチにはある。
それが、セオドア・ルーズベルトの「The Man in the Arena」と呼ばれるスピーチ。
気になって調べてしまった笑。全文は↓で見れます。
http://www.theodore-roosevelt.com/images/research/speeches/maninthearena.pdf

famous quoteの部分が以下。


"It is not the critic who counts; not the man who points out how the strong man stumbles, or where the doer of deeds could have done them better. The credit belongs to the man who is actually in the arena, whose face is marred by dust and sweat and blood; who strives valiantly; who errs, who comes short again and again, because there is no effort without error and shortcoming; but who does actually strive to do the deeds; who knows great enthusiasms, the great devotions; who spends himself in a worthy cause; who at the best knows in the end the triumph of high achievement, and who at the worst, if he fails, at least fails while daring greatly, so that his place shall never be with those cold and timid souls who neither know victory nor defeat." 

要するに、一番偉いのは、批評家ではなく、アリーナ(競技場)に汗水垂らして立つアスリートたちなのだ、という話。そこで、アスリートたちが勝つあるいは負けるということは問題ではなくて、そこで果敢に挑戦した(dare greatly)ことこそが重要なのだという。

この文を読んでいたとき、自分は何度「アスリート」だったことがあっただろうと考えてしまった。自分はほとんどの場合、間違いなく「批評家」で愚痴ばっかり言っていたような気がする。失敗するリスクが恐ろしくて、あるいは、自分なんかにそんなことはできない、恥ずかしくて無理だという気持ちがあって、とりあえず「確実」そうなものに向かって生きてきた気がする。でも、そういう生き方をしているとどこかいつも窮屈で、悶々としてしまう瞬間もかなり多かったことも事実だと思う。

そして、この「批評家精神」を抜け出すことの意味について教えてくれたのが、実は、一連のミュージカルの「ファン活動」だったのではないか、と後々思った。

「こんな年にもなって、ファン活動なんて」、「スーパーシャイ人間の自分が見ず知らずの人にファンレターなんて」、「たかだか一ファンのお願いをリシャールが聞いてくれるはずがない」…等々。思えば、vulnerabilityが満載(笑)。Shameへつながる可能性は山ほどあったけれど、失敗してもいい、とにかく自分はやってみたい、と恐らく人生で初めて(笑)心の底から思い、自分なりに挑戦をしてみた。

リシャールへのインタビューはvulnerabilityを恐れず挑戦して「成功」した例ではあるけれど、実は、失敗したことも結構あったりする(たとえば、ローランには、一生懸命作ってみたお手紙をファンミで渡してみたけれど、あんまり喜んでもらえなかったり苦笑。)。それでも、「私はとにかくやってみたかったんだ」という想いは常にあったので、確かに失敗した瞬間は凹んだけれども、それでも、後悔するということはなかったように思う。

アリーナのスピーチ&ブルネーさんの話に戻ると、アリーナに出る前に、準備万端、鉄壁状態で出て行きたい、という気持ちはわかるけれど、そんなことは無理だし、そんなもの、誰も見たいとは思わない、ということを語っている。

確かに、今まで感動したことを振り返ってみると、その多くは、誰かの偉大なる業績というよりは、そこにたどり着くまでにその人が困難の中で悪戦苦闘する姿だったり、大きな失敗や絶望のどん底から這い上がる姿だったように思う。その姿は、痛々しいまでに人間的で、だからこそ、輝いて見えたんだろうなと今になって思った。

また、ブルネーさんは、"guilt"と"shame"の違いについても語っている。
Guilt: I'm sorry. I made a mistake. Shame: I'm sorry. I am a mistake.
つまり、"Guilt"は、行動ベースで間違ったことをしてしまった、と思うことであるのに対し、"Shame"は、自分の存在そのものを自分で否定すること。だから、Guiltの場合は、反省してそこからやり直すことができるけれど、Shameの場合は存在そのものの否定なので、そこから抜け出す方法がない。。。つまり、shameが大きくなればなるほど、人は出口がないように感じて、追いつめられていってしまう。。。この2つの違いはすごく大きい。

だからこそ、shameが蓄積するとaddictionや拒食症や鬱病などに結びついてしまう、という。確かにdead endだと感じると人はdesperateな気持ちになってこういうことに走ってしまう気がする。

というわけで、ブルネーさんは、Shameを増殖させないようにする必要がある、と話していて、Shameを構成する3つの要素は"secrecy, silence and judgment(秘密、沈黙、決めつけること(判定が直訳ですがjudgementalというと、決めつけて考えるのニュアンスがあるので、色眼鏡で見て考えるという意味なような気がします。))"で、これをやっつける薬は「empathy(共感)」だ、と結論づけている。

これは、確かに、と思った。自分は友人と人生談義をする中で、すごく癒された経験が結構あるのだが、まさに、これは、empathyの一例なのだとこの話を読んで思った(日記もある意味そういう要素がある気がする。)。どんなに恥ずかしかったことでも、友人に一度話をすると、そのshameが一度客観化されて、自分が考えていた「悩み」が実は自分が思うほど深刻ではない、と思えることが何度もあった。全ての話に同意して欲しいというわけではない。でも、「それ、わかる。」と誰かに言ってもらえるとなんだかほっとする。

ソウルの話についてもそうだが、自分の恥ずかしい話も含めて、率直に正直に話した話というのは、意外にも他の人の心にも通じる気がする。そして、驚くことに、かなりの確率で共感の念を持ってもらえた。そして、正直に話したことで、自分自身、肩の荷が下りたというか、もう何かを隠して生きていく必要がないんだと思ったら、すごくそれ以降の人生を本当の意味で楽しめるようになった気がする。誰にでも正直にvulnerableになって話すということはもちろん、できるとは思わないけれど(苦笑)、それでも、できる限り、これからも自分に正直に生きていきたいなあとは思う。

ブルネーさんは、Shameについてはっきりとジェンダー差がある、という話もしているが、文が長くなってしまったので、この辺で、終わりにしておく笑。

彼女のvulnerabilityについての著書も面白かったです。
The Gifts of Imperfection: Let Go of Who You Think You're Supposed to Be and Embrace Who You Are
http://www.amazon.co.jp/dp/B00BS03LL6

(日本語)
「ネガティブな感情」の魔法: 「悩み」や「不安」を希望に変える10の方法
http://www.amazon.co.jp/dp/4837957455


そして、苦し紛れにフランス語とつなげようとすると…
TED Parisが存在する。(なぜパリオンリーなのかはちょっと謎だけど。。。)

そして、こちらも英語バージョン同様、スクリプト付きで見られる(英語版よりは、やはり翻訳言語の数が少ないけれど。)。
たとえば、Yann Dall'Aglioという哲学者の人の"Comment sauver l'amour ?"
この映像、なかなか面白かった。

"Yann Dall'Aglio: Comment sauver l'amour ?"


"Qu'est ce que l'amour?"で始まるとおり、「愛とは何か?」という話。

彼は愛をまず"le désir d'être désiré"と定義する。愛されたい(望まれる存在でありたい)という願望とでも訳すことができるだろうか。(英語だとdesire to be desired。)。つまり、最初のほうでいくつか例が挙げられているが、人間は、望まれた存在である、と(他人によって)認識されて初めて、自分が望まれた存在なのだ、と感じるという。そして、Yannさんは「では、どうすれば、理想的(desirable)であり続けられるだろうか?」と問いかける。
Seul une autre conscience désirante, donc, peut me constituer comme être désirable. Cela je le sais, et c'est pourquoi on peut définir l'amour d'une manière plus précise, comme étant le désir d'être désiré. D'où l'éternel problème de l'amour : comment devenir et comment rester désirable ?
ここから、愛の歴史レクチャー(笑)が始まる。
13世紀のルネサンス/近代化に至るまで、人々は、とりあえずコミュニティーの規範に従っていれば良かった。愛もやはりその規範の中にあった(まあ、これは、政略結婚とか、考えれば何となくわかりやすい話だわね。)。

が、近代化が始まり、「個人の権利」といった概念が誕生し、結果として、何に価値を置くか、あるいは価値を置かないか、を全て個人が選択できるようになった。と同時に、他人によって自分自身の価値を測られる存在にもなった。つまり、個人の価値があたかも株式市場の株のように取引されるようになった=自由競争の時代になった、とYannさんはいう。(=つまり価値があると思われる人には高い値がつき、そうでないと思われた人には低い値がつく、ということ。。。)

そこで、人々はヒステリックなまでに、自分がどれほど価値ある存在であるかを証明するために、symboles de la désirabilité(魅力(的であること)のシンボル) / capital séduction(魅惑資本(笑))を集めることに執心してしまうという。(例としてでてきていたのは、ファッショナブルな車、すてきなお姉さん(美貌っていう意味かな。)等々。他にも年齢、背の高さ、体重、年収、学位など。)。

さて、このままcapital séductionコレクター熱が加速する一方でよいのか??という話になり、Yannさんは、他にも道があるのではないかと問いかける。

まずは、自分自身が価値のない存在であることに気づくこと。(en prenant conscience de ma nullité)。というと何だかちょっと絶望感いっぱいな話に聞こえるが、そもそも私たち自身に元々ある(内在的な)価値などないのであって、そういった意味で、私たちは所詮、何かになりきろうとしているだけ(imposteur(なりすまし/偽物))なのだということを自覚すべきだ、ということらしい。この「なりすまし」が行き過ぎると、カップルの場合、お互いがお互いをパーフェクトに見せようと全てがパフォーマンス化されてしまい、結果として、破局するのだと、いう。(まあ、この話何となくわかる気がする。。。)

で、Yannさんが、代わりに必要だと考える概念が、"tendresse"(優しさ)。

彼の言う"優しさ"とは、"c'est accepter les faiblesses de l'être aimé.(愛する人の欠点を受け入れること。)" そして、最後にちょこっとだけ述べられているが、それに効果的なのが、"auto-dérision(自分自身を笑うこと/自虐的な笑い。)"。

これは、実は、Brenéさんのvulnerabilityにすごく通じるところがある気がする。自分の素晴らしいところを強調するのではなくて、欠点も含めて、その人を理解しようとするということが、本当の意味で人間の愛なのだと思う。そして、そういった理解なしには、やっぱり長いこといい関係を続けるのは難しいのだろうなと思う。

このブログも、何となくvulnerability日記でなくもない気がし(笑)、でも、そういう場所がちょっとでもあるのもいいかなあと思ったりした。これからも「恥をさらして」生きていこうと思う(苦笑)


2014年3月2日日曜日

Après l'interview... 〜リシャール・インタビューこぼれ話(リシャールの人柄)〜

本編のインタビューに書くとちょっと脇道から逸れてしまうことをここで。


シャルルヴィルのデュカル広場

今回のプチインタビュー、まったくもって驚きの連続でした…。

質問自体は、シンガポールから帰ってからわりとすぐの12月末にリシャールに送っていました。

でも、性格的に、あまり物事に期待はしないたちなので、今回も、返事が返ってきたら、ラッキーだわ、ぐらいに思っていました。

リシャールも、リストを送った時、ちょっと時間かかるかもしれないけど返事するね、とは言っていましたが、向こうは忙しいし、何せ、私は、単なる一ファンにすぎないので、まあ返ってこなくても、またいつか別の機会にトライすればいいやぐらいに思っていました。

そして、実際、2月になっても、返事はなく、あー、やっぱりダメだったかと諦めかけたところ、たまたま、ソウルガラコンには来ないんだよね?(ってわざわざ聞くのもどうかと思うが苦笑。)と確認するついでに、そういえば、ランボーの質問は…。とおずおずと聞いてみたら、リシャールから、「リストを再送してくれるかな?遅くなってしまってごめんね。」と返事が返ってきました。

というわけで、質問を再送したところ、次の日に(!)、ご存知のとおり、かなりがっつり書き込まれた回答が返ってきました。しかも、わざわざ自分の回答は太字にしたり、すごく几帳面に書かれていて、こっちが恐縮してしまいました。

返事が返ってきただけでも望外の喜びだったのですが、同時にこんなにも真剣にリシャールが答えを考えてくれたことに深い感動を覚えました。。。が、こんなに真面目に答えていただけたのはよいけれど、これ、私の微妙ブログに載せるっていうので果たしていいのか?&私の微妙な訳で大丈夫なのか??という不安も同時に生まれました(→常に若干ネガティブ思考(苦笑))。

今回のインタビュー、もちろんリシャールのランボーのミュージカルについて聞きたい/紹介したいというのが第一の目的だったわけですが、同時に「翻訳をする」という面でもいろいろな気づきがありました。というわけで、今回、翻訳をしながら思ったこと、感じたこと等についてちょっと書いてみようと思います。

リシャールのフランス語

リシャールのフランス語はFBの文章で見ている限りでは、シンプルでわかりやすい文体だと思っていたので、今回のインタビューをお願いするにあたっては、答えはフランス語で大丈夫です、とお伝えしていました。(白状をすると、実は質問は、時間の制約上、半分ぐらいはフランス語で残り半分ぐらいが英語で書いていました(普段は一応フランス語にする努力はするのですが…。(→言い訳(汗)))。)

そして、返ってきたリシャールのフランス語の回答ですが、見ていて8割ぐらいは、Google翻訳と私の浅いフランス語の知識でだいたいの意味は理解できたのですが、やはり残りの2割がどうしてもよくわからず、「リシャール、あなたの言いたいことがわからない…。」とぶつぶつつぶやいていました(苦笑)。

フランス語を勉強し始めて2年ちょっとになりますが、やはり条件法やちょっと上級な表現が出てくると挫折します苦笑。

例えば、リシャールがアルノーさんにミュージカルを一緒に作ろうと提案した下りの下記の文章。

Sans savoir que 5 ans plus tard, en décembre 2004, je lui proposerais d’écrire un spectacle sur Arthur Rimbaud.

Sans savoir que、と proposeraisの訳にがっつり挫折しました。。。最初の私の訳は実は、「5年後の2014年12月になるとは思わなかったけれど、僕は、彼にアルチュール・ランボーについてのミュージカルを作ろうと提案した。」という派手な誤訳でした(汗)。条件法の形が何を意味しているのか全くわからず(正解は、過去の時点から、未来について語っているために条件法になっている。英語で言うとI would proposeの意味。)、完全なるフィーリング訳(爆)。Sans savoir queもどう係っているのか「??」でした。

せっかくすてきな文章を書いてもらったのに、それをちゃんと理解&表現しきれない自分がほんと情けなかったです。

最終的にわからない部分については、フレンチミューの草分けのMewさんにいろいろご教授いただき、リシャールの想いをどうにか形にすることができました(どん詰まりの中、救いの手を差し伸べてくださったMewさんには本当に感謝です。)。


インタビューの翻訳をするということ

自分は普段、仕事上で翻訳をする機会はあっても、基本、ビジネス文書なので、インタビュー記事を訳すという機会はほとんどありません。というわけでインタビューした人がどんな人であるかということを考えなければいけないということもあまりありません。

でも、インタビューの場合、その人の個性が結構はっきり言葉の中に表れるので、その人の言葉を日本語にするとしたら、果たしてどんな言葉を使うだろうか、と考えることがかなり重要になってきたりします。

簡単な例で言えば、"Je"はフランス語では一通りしかありませんが、日本語では、私、僕、俺、等々「自分」を示す言葉がたくさんあります。今回リシャールだったら?と考えたとき、俺、は変だし、私だと固くなりすぎるので、僕としてみました。(リシャールのちょっと素朴なところも「僕」だと表現できるかなと思い(笑)。)

また、vousも日本語訳のスタンダードはおそらく「あなた」ですが、今回、敢えてリシャール目線で「君たち」という表現を使ってみました。(人によるのだとは思うのですが、フランス語圏で芸能人がファンの人に向けてyouという呼びかけを行う場合、vousのほうがtuより出現率が高いような気がします。でも、このvousはファンへの親しみも込められたvousなのかなと思います。)

また、「です、ます」調にするか、もっとカジュアルな表現にするかでも翻訳の印象がだいぶ変わってきます。今回は、紙上インタビューという形を取っていましたが、ざっくばらんに話している感じを出したかったので、表現もですます調にせず、カジュアルな感じにしてみました。

というわけで、今回、ある意味リシャールになりきって、リシャールならどう言うだろう、と考えながら翻訳をしていたわけですが(笑)、そういう経験は、普段の生活ではほとんどないので個人的にすごく面白かったです。彼の誠実な性格が滲み出るようにしつつも、同時に彼のチャーミングさも感じられるよう翻訳をしたつもりなのですが、それがうまく伝わっているでしょうか?

文章から垣間見えるリシャールの性格

翻訳をすると、普段何となく流し読みをしてわかったつもりになっているような部分もきちんと理解しようとするので、文章からその人の人と成りが結構わかってきたりするのですが、リシャールの翻訳をしていてすごく思ったのは、彼の知的さと誠実さがすごく表れているということでした。これらは、実際会ってお話をさせてもらったり、メッセのやりとりとかでもそう感じてはいたのですが、実際にこういうかなり長い文章を書いてもらって改めてそれを実感させられました。

まず、インタビューの回答が、どれも簡潔で的を得たもの、かつ、ちゃんと中身があるものであることにすごく驚きました。質問リストを送るときに、他のファンの人もランボーのことを知りたがっているから、その詳細を教えてほしい&ぜひその内容をシェアさせてほしい、とお願いをしていたのですが、ちゃんとその趣旨を理解して、かつ私のそれぞれの質問の意図を汲み取って回答してくれたのがすごくうれしかったです。インタビューって意外と自分の言いたいことを話して脇道に逸れてしまうことも結構多いのですが、リシャールはそういうことが全然なかったです。

そして、実は、最後のファンへのメッセージは、当初の質問とは別に後から追加でお願いをしたものなのですが(これ、かなりリシャールには申し訳なかったのですが、どうしても、これだけは入れたかったので、無理言ってお願いをしました。)、この返事、実は、私がお願いをしてから30分後くらいで返ってきたものでした。まず、即レスで返してくれたということ自体に驚きですが、それだけの短い時間であれだけ流れがある知的な文章を書けるというのは、やはり頭の回転が早い人なんだなあとすごく思いました(年下の自分がこんなことを言うのも何様、という気はするのですが(汗)、素朴に「さすが、リシャール!」と尊敬の念を抱きました。)。

そして、翻訳をしていてふと気づいたのですが、リシャール、ランボーのことをRimbaudと表記せず、le poèteと表現していたり、Vitalieのことをsa mèreと表現しているところが結構ありました。そういう部分からも彼の詩的センス(という言い方でいいのか?)というかインテリ度をけっこう感じました(端的に言うと文章がちょっと小洒落ている。)。


思いがけない展開

実は、翻訳にあたって、Mewさん以外にもフランス語を大学で専攻していた友人にフランス語のことばの感覚について質問したり、私のnon-nativeな英語をチェックしてもらうために帰国子女の友人にちょっと応援をお願いしていました。二人とも、フレンチミューは見たことがなく、あまりフレンチミューの話自体もしたことがなかった子たちでした。

今回、協力をお願いするにあたって、背景知識がないとかなり謎だと思ったので、二人にことの成り行きや、ランボーについての説明等々をすることになったのですが、その中で、(これは自分でも全く予想していなかったことなのですが。)二人が、フレンチミュージカルやリシャール、そしてランボーのミュージカル、おもしろそうだね、と言ってくれました。

「趣味は何?」と聞かれて、「フレンチミュージカルを見ることです。」と答えると、たいてい「?」という反応が返ってきて、何となく微妙な空気が流れます(苦笑)。というわけで、フレンチミューつながりで知り合った人以外とは基本的にはあまりミュージカルの話はしないようにしていました。(クローゼットファン笑。)

ですが、今回たまたま成り行き上、フレンチミューについて説明することになり、想定外に(いい意味で)興味を持ってもらうことができて、これは自分にとってうれしい驚きでした。このインタビューによって、ほんの少しですが、フレンチミューの輪を広げることができたのかなと思います。そういう意味でも、今回このインタビュー企画をやって良かったなと思いました&リシャールに感謝。(そして、自分でちょっと笑えたのが、リシャールについて友人に説明しているときの自分が、何だか"親戚ががんばっているんだけど、いろいろ大変そうなの…。"、みたいなモードになっていたこと。。。どんだけ思い入れがあるのよ、自分、と自分に突っ込んでしまいました笑。勝手な親戚感覚(爆))。


ここから全て始まったんだなあ。本当に懐かしい。
最後に…

リシャールは、自分のミュージカルということで、いろいろ一人でやっているようで、最近忙しいのか(そういえば、もうすぐNDPのルクセンブルク公演も始まるしね。)FB上も無言であることが多いですが、近いうちにいいニュースが聞ければなあと思います。

なんだか、自分の適当な翻訳感想記になってしまいましたが…実は、リシャールやパートナーのアルノーさんにランボーについてインタビューする(できれば対面、口頭で。)、というのは、自分にとって、一ファン、そしてフランス語学習者としての一つの大きな目標でした。(叶うかどうかは別として、とりあえず、目標は高く、と思って作った目標でした。)

口頭で、という部分でこそ、まだまだ道半ばですが、紙面という形でその夢に大きく近づけたことは、自分にとって、何事にも代え難い経験でした。自分が今まで手掛けた翻訳の中で、一番、無心&夢中になって取り組んでいた気がします。

自分の半ば無謀なお願いに真摯に応えてくれたリシャールには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。リシャール本当にありがとう。

2013年5月のガラコンあとの、フランス語の練習も兼ねての熱心すぎる(苦笑)ランボーの曲感想メッセから始まり、シンガポール公演のときのカード等、若干リシャールからするとうざかったかもしれないのですが(苦笑)、そういった自分の想いが、少しでもリシャールに伝わっていたのなら、自分は本当にうれしいです。

いつも、間違いだらけのフランス語、ときに英語が入り交じっている私のメッセやtweetを辛抱強く読んで、丁寧にお返事をくれるリシャールやアルノーさんには、いくら感謝しても感謝したりません。彼らからもらう一言一言が文字通り、私にとっては宝物であり、私が前に進む原動力になっています。

個人的なプロジェクトということで、大きなプロダクションの作品にはないいろいろな苦労もあるのではないかと思うのですが、彼ら2人の想いが少しでも多くの人に伝わることを願ってやみません。

次回どこかでリシャールand/orアルノーさんに会うときまでには、あまりにも悲惨なフランス語のスピーキング力を何とか底上げしたいなと思います(これかなりハードル高し。)。そして、Google翻訳依存症からも、一刻も早く抜け出すよう努力していきたいと思います。(同じくハードル高し。苦笑。)

さて、これからもがんばらなければ…^^;


2014年2月20日木曜日

仏検準2級ホルダーになりました。

さて、1ヶ月くらい前に2次試験を受けた仏検準2級の結果発表が今日ネットで開示された。
 
 
 
結果は合格、だったが、結構ギリ合格でちょっと焦った。。。一応、真実味を出すために、結果表も載せてみます。。。22/18点(満点30点)。ネット開示ではどこが引かれたとかわからないのですが、まあ、1問目はきっと間違っていたんだろう。。。と勝手に予測。
 
 

そして、見て分かるように合格率は、1次は62.2%。2次までだと、52.3%。というわけで、単純に割合で考えると2人のうち1人が受かる試験。(そういう割合になるように合格者を線引きしているのだとは思うけど。。。)これが、2級になると突然合格率が3割に減る…。

少なくとも2級までがんばりたいとは思うのですが、手が回るものかしら。。。

そして、未だに私、愛しのGoogle翻訳から足を洗うことができません。とりあえず、考える前にGoogle翻訳にかけてから、意味が正しいかの検証をしてしまいます。その方法が一番早くて確実なので、この癖が抜けない。。。そして、コメントとかメッセ作成のときも然り。。。というわけでいつまでたっても、自力でフランス語を書く力がつかず、新しい単語も右から左へ流れて行ってしまうことも多い。。。反省だわ。

最近、フラ語をちょこちょこ使ってるわりに、本当の意味でのフラ語力が全く向上しておらず(いや、むしろ退化してるな…(汗))、ジレンマに陥ってばかりです。。。私の語学力が私のやりたいことにまったく追いつかない。。。歯がゆすぎます。

でもとりあえず今日だけは、素直に合格できたことを喜ぼう。
そして、また、明日からがんばろう。