2014年3月23日日曜日

The power of vulnerability 〜自分をさらけ出すこと〜

フレンチミューとは全く関係ないですが…。無理矢理Language Learningにくっつけてみる苦笑。

韓国のよなよな話を書いているときに、たまたま見つけたTED Talkの映像。スーパープレゼンテーションという名前で、毎週セレクトされたトークがEテレで放送されていている。結構お気に入りでときどき見ていた。

最近、TED Talkにすごいアーカイブがあることを今更知った笑。

しかも、すごいのが、PCだと、interactiveでスクリプトが見れる(映像中で話されている部分が下線で逐一示される。)。しかも、トークにもよるけれど、かなりの数の言語の訳が見れる。素晴らしすぎる。

ラインナップを見ると結構おもしろそうな人、話題のトークがいっぱい。気になったものをいくつか見てみた。
その中で特に面白かったのが、Brené Brownさんのvulnerabilityとshameについてのトーク

この2つのトーク、かなり話題になったものらしい。
まず第一弾。vulnerabilityについてのトーク。

"Brené Brown: The power of vulnerability"

大きなテーマとしては、人とつながるには、自分をさらけ出して、vulnerableになる/ imperfectであることを受容することが不可欠だ、ということ。そういうことを実践している人は、人間関係が上手くいっているのだという。彼女はこのような人々の状態をまずwholehearted(あるがまま)な状態と名付けたそうだ。
"in order for connection to happen, we have to allow ourselves to be seen, really seen."
"They fully embraced vulnerability. They believed that what made them vulnerable made them beautiful." (Theyは、人間関係がうまくいっている人。) 

実は、この結論は、彼女にとって全く予期しないもので、この結論に最初に行き着いたとき、彼女はnervous breakdownに陥ってしまったのだという(だが、セラピストはこれをspiritual awakeningと呼んだらしい笑。)。

最初のうち、なぜこれが、nervous breakdownにつながるのかよくわからなかったが、おそらく、研究者というのは、なにかわからないものをはっきりとわかる形にする(彼女はcontrolやpredictablityという言葉を使っている。)ことが仕事なのに、vulnerabilityというのは、そういった「はっきりわからないもの」を許容するという側面が往々にある(たとえば、wholeheartedな人は、可能性が低い高いに関係なくとにかく人と関係性を持とうとするタイプの人であるらしい。)ので、人間関係の構築にvulnerabilityが不可欠だ、という結論は、曖昧さを許容することになり、すなわち、研究者失格だということにつながる、ということのようだった。(あくまで自分の理解なので、あまり自信はないですが。。。)
There was only one variable that separated the people who have a strong sense of love and belonging and the people who really struggle for it. And that was, the people who have a strong sense of love and belonging believe they're worthy of love and belonging. That's it. They believe they're worthy.
そして、ブルネーさん曰く、人間関係のうまくいっている人とうまくいっていない人の唯一の違いは自分自身が愛される/存在する(belonging自体は何かのグループに帰属するといった意味が直訳ですが、要するにそのグループにいることに値するという意味なのかなと思いました。)に値する人間である、と本人が感じているかどうか、なのだという。

で、その感覚に不可欠なのが、上記に挙げたvulnerability。
vulnerabilityはshame(他の人に拒否されたり、否定されたりする)へとつながる可能性が常にあるので、人はそのshameにまつわる悲しさ、不快感から逃れるために、vulnerabiltyを麻痺させ(numb)ようと、さまざまなaddictionに走ることがある。が、ここで忘れてはならないのは、麻痺するのは、マイナスの感情のみならず、プラスの感情も含まれているという点だとブルネーさんは言う。つまり、vulnerableな感情を押し殺せば、不快感を消すことはできても、同時に喜びや幸せ、感謝の気持ちといったものもなくなってしまう、ということなのだという。

確かに、何かいやなことを忘れてしまおうと思うとき、そういえば、「無」というか「無気力」の感覚に近い気がした。そして、この無気力な感覚は、実は、「マイナス」の気持ちよりも時に、すごく気が滅入る気がする。

というわけで、vulnerabilityあるいはwholeheartedで、自分を愛することこそが本当の意味で幸せになるには不可欠だという話になってくる。

最後に、ブルネーさんは、「perfect」な(ある意味、ありもしないパーフェクトさ)自分ではなく、ありのままの自分を愛すること("We're enough"と思えること)こそ、実は、他人に対する愛、優しさにもつながる、という話でこのトークを締めくくっている。

そして、第二弾。こちらはShameについて主にフォーカスを当てている。
最初のほうは、前回のスピーチでの反響等について、ジョークを交えて語られている。

"Brené Brown: Listening to shame"



こちらのトークで印象的だったフレーズがこちら。
"vulnerability is our most accurate measurement of courage"
vulnerabilityは、「弱さ」の象徴ではなく、実は最も正確な「勇気」のものさしだという意味だが、言われてみれば、ああ、とは思うものの、こういう風に言葉になると何だかすごく新鮮な気がした。

確かに、vulnerabilityを恐れず生きる人たちは、失敗するとかそういったことはまず置いておいて、とにかくやってみるタイプの人だと考えたとき、それはまさに「勇気」 のものさしだというのは、すごく納得する。

そして、もう1つ印象的な引用がこのスピーチにはある。
それが、セオドア・ルーズベルトの「The Man in the Arena」と呼ばれるスピーチ。
気になって調べてしまった笑。全文は↓で見れます。
http://www.theodore-roosevelt.com/images/research/speeches/maninthearena.pdf

famous quoteの部分が以下。


"It is not the critic who counts; not the man who points out how the strong man stumbles, or where the doer of deeds could have done them better. The credit belongs to the man who is actually in the arena, whose face is marred by dust and sweat and blood; who strives valiantly; who errs, who comes short again and again, because there is no effort without error and shortcoming; but who does actually strive to do the deeds; who knows great enthusiasms, the great devotions; who spends himself in a worthy cause; who at the best knows in the end the triumph of high achievement, and who at the worst, if he fails, at least fails while daring greatly, so that his place shall never be with those cold and timid souls who neither know victory nor defeat." 

要するに、一番偉いのは、批評家ではなく、アリーナ(競技場)に汗水垂らして立つアスリートたちなのだ、という話。そこで、アスリートたちが勝つあるいは負けるということは問題ではなくて、そこで果敢に挑戦した(dare greatly)ことこそが重要なのだという。

この文を読んでいたとき、自分は何度「アスリート」だったことがあっただろうと考えてしまった。自分はほとんどの場合、間違いなく「批評家」で愚痴ばっかり言っていたような気がする。失敗するリスクが恐ろしくて、あるいは、自分なんかにそんなことはできない、恥ずかしくて無理だという気持ちがあって、とりあえず「確実」そうなものに向かって生きてきた気がする。でも、そういう生き方をしているとどこかいつも窮屈で、悶々としてしまう瞬間もかなり多かったことも事実だと思う。

そして、この「批評家精神」を抜け出すことの意味について教えてくれたのが、実は、一連のミュージカルの「ファン活動」だったのではないか、と後々思った。

「こんな年にもなって、ファン活動なんて」、「スーパーシャイ人間の自分が見ず知らずの人にファンレターなんて」、「たかだか一ファンのお願いをリシャールが聞いてくれるはずがない」…等々。思えば、vulnerabilityが満載(笑)。Shameへつながる可能性は山ほどあったけれど、失敗してもいい、とにかく自分はやってみたい、と恐らく人生で初めて(笑)心の底から思い、自分なりに挑戦をしてみた。

リシャールへのインタビューはvulnerabilityを恐れず挑戦して「成功」した例ではあるけれど、実は、失敗したことも結構あったりする(たとえば、ローランには、一生懸命作ってみたお手紙をファンミで渡してみたけれど、あんまり喜んでもらえなかったり苦笑。)。それでも、「私はとにかくやってみたかったんだ」という想いは常にあったので、確かに失敗した瞬間は凹んだけれども、それでも、後悔するということはなかったように思う。

アリーナのスピーチ&ブルネーさんの話に戻ると、アリーナに出る前に、準備万端、鉄壁状態で出て行きたい、という気持ちはわかるけれど、そんなことは無理だし、そんなもの、誰も見たいとは思わない、ということを語っている。

確かに、今まで感動したことを振り返ってみると、その多くは、誰かの偉大なる業績というよりは、そこにたどり着くまでにその人が困難の中で悪戦苦闘する姿だったり、大きな失敗や絶望のどん底から這い上がる姿だったように思う。その姿は、痛々しいまでに人間的で、だからこそ、輝いて見えたんだろうなと今になって思った。

また、ブルネーさんは、"guilt"と"shame"の違いについても語っている。
Guilt: I'm sorry. I made a mistake. Shame: I'm sorry. I am a mistake.
つまり、"Guilt"は、行動ベースで間違ったことをしてしまった、と思うことであるのに対し、"Shame"は、自分の存在そのものを自分で否定すること。だから、Guiltの場合は、反省してそこからやり直すことができるけれど、Shameの場合は存在そのものの否定なので、そこから抜け出す方法がない。。。つまり、shameが大きくなればなるほど、人は出口がないように感じて、追いつめられていってしまう。。。この2つの違いはすごく大きい。

だからこそ、shameが蓄積するとaddictionや拒食症や鬱病などに結びついてしまう、という。確かにdead endだと感じると人はdesperateな気持ちになってこういうことに走ってしまう気がする。

というわけで、ブルネーさんは、Shameを増殖させないようにする必要がある、と話していて、Shameを構成する3つの要素は"secrecy, silence and judgment(秘密、沈黙、決めつけること(判定が直訳ですがjudgementalというと、決めつけて考えるのニュアンスがあるので、色眼鏡で見て考えるという意味なような気がします。))"で、これをやっつける薬は「empathy(共感)」だ、と結論づけている。

これは、確かに、と思った。自分は友人と人生談義をする中で、すごく癒された経験が結構あるのだが、まさに、これは、empathyの一例なのだとこの話を読んで思った(日記もある意味そういう要素がある気がする。)。どんなに恥ずかしかったことでも、友人に一度話をすると、そのshameが一度客観化されて、自分が考えていた「悩み」が実は自分が思うほど深刻ではない、と思えることが何度もあった。全ての話に同意して欲しいというわけではない。でも、「それ、わかる。」と誰かに言ってもらえるとなんだかほっとする。

ソウルの話についてもそうだが、自分の恥ずかしい話も含めて、率直に正直に話した話というのは、意外にも他の人の心にも通じる気がする。そして、驚くことに、かなりの確率で共感の念を持ってもらえた。そして、正直に話したことで、自分自身、肩の荷が下りたというか、もう何かを隠して生きていく必要がないんだと思ったら、すごくそれ以降の人生を本当の意味で楽しめるようになった気がする。誰にでも正直にvulnerableになって話すということはもちろん、できるとは思わないけれど(苦笑)、それでも、できる限り、これからも自分に正直に生きていきたいなあとは思う。

ブルネーさんは、Shameについてはっきりとジェンダー差がある、という話もしているが、文が長くなってしまったので、この辺で、終わりにしておく笑。

彼女のvulnerabilityについての著書も面白かったです。
The Gifts of Imperfection: Let Go of Who You Think You're Supposed to Be and Embrace Who You Are
http://www.amazon.co.jp/dp/B00BS03LL6

(日本語)
「ネガティブな感情」の魔法: 「悩み」や「不安」を希望に変える10の方法
http://www.amazon.co.jp/dp/4837957455


そして、苦し紛れにフランス語とつなげようとすると…
TED Parisが存在する。(なぜパリオンリーなのかはちょっと謎だけど。。。)

そして、こちらも英語バージョン同様、スクリプト付きで見られる(英語版よりは、やはり翻訳言語の数が少ないけれど。)。
たとえば、Yann Dall'Aglioという哲学者の人の"Comment sauver l'amour ?"
この映像、なかなか面白かった。

"Yann Dall'Aglio: Comment sauver l'amour ?"


"Qu'est ce que l'amour?"で始まるとおり、「愛とは何か?」という話。

彼は愛をまず"le désir d'être désiré"と定義する。愛されたい(望まれる存在でありたい)という願望とでも訳すことができるだろうか。(英語だとdesire to be desired。)。つまり、最初のほうでいくつか例が挙げられているが、人間は、望まれた存在である、と(他人によって)認識されて初めて、自分が望まれた存在なのだ、と感じるという。そして、Yannさんは「では、どうすれば、理想的(desirable)であり続けられるだろうか?」と問いかける。
Seul une autre conscience désirante, donc, peut me constituer comme être désirable. Cela je le sais, et c'est pourquoi on peut définir l'amour d'une manière plus précise, comme étant le désir d'être désiré. D'où l'éternel problème de l'amour : comment devenir et comment rester désirable ?
ここから、愛の歴史レクチャー(笑)が始まる。
13世紀のルネサンス/近代化に至るまで、人々は、とりあえずコミュニティーの規範に従っていれば良かった。愛もやはりその規範の中にあった(まあ、これは、政略結婚とか、考えれば何となくわかりやすい話だわね。)。

が、近代化が始まり、「個人の権利」といった概念が誕生し、結果として、何に価値を置くか、あるいは価値を置かないか、を全て個人が選択できるようになった。と同時に、他人によって自分自身の価値を測られる存在にもなった。つまり、個人の価値があたかも株式市場の株のように取引されるようになった=自由競争の時代になった、とYannさんはいう。(=つまり価値があると思われる人には高い値がつき、そうでないと思われた人には低い値がつく、ということ。。。)

そこで、人々はヒステリックなまでに、自分がどれほど価値ある存在であるかを証明するために、symboles de la désirabilité(魅力(的であること)のシンボル) / capital séduction(魅惑資本(笑))を集めることに執心してしまうという。(例としてでてきていたのは、ファッショナブルな車、すてきなお姉さん(美貌っていう意味かな。)等々。他にも年齢、背の高さ、体重、年収、学位など。)。

さて、このままcapital séductionコレクター熱が加速する一方でよいのか??という話になり、Yannさんは、他にも道があるのではないかと問いかける。

まずは、自分自身が価値のない存在であることに気づくこと。(en prenant conscience de ma nullité)。というと何だかちょっと絶望感いっぱいな話に聞こえるが、そもそも私たち自身に元々ある(内在的な)価値などないのであって、そういった意味で、私たちは所詮、何かになりきろうとしているだけ(imposteur(なりすまし/偽物))なのだということを自覚すべきだ、ということらしい。この「なりすまし」が行き過ぎると、カップルの場合、お互いがお互いをパーフェクトに見せようと全てがパフォーマンス化されてしまい、結果として、破局するのだと、いう。(まあ、この話何となくわかる気がする。。。)

で、Yannさんが、代わりに必要だと考える概念が、"tendresse"(優しさ)。

彼の言う"優しさ"とは、"c'est accepter les faiblesses de l'être aimé.(愛する人の欠点を受け入れること。)" そして、最後にちょこっとだけ述べられているが、それに効果的なのが、"auto-dérision(自分自身を笑うこと/自虐的な笑い。)"。

これは、実は、Brenéさんのvulnerabilityにすごく通じるところがある気がする。自分の素晴らしいところを強調するのではなくて、欠点も含めて、その人を理解しようとするということが、本当の意味で人間の愛なのだと思う。そして、そういった理解なしには、やっぱり長いこといい関係を続けるのは難しいのだろうなと思う。

このブログも、何となくvulnerability日記でなくもない気がし(笑)、でも、そういう場所がちょっとでもあるのもいいかなあと思ったりした。これからも「恥をさらして」生きていこうと思う(苦笑)


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